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日本基督教団改革長老教会
協議会ニュース第50号


季刊『教会』五〇号を出版して

東村山教会牧師 芳賀 力

 協議会運動が始まって五年目、そろそろ白分たちの雑誌を持つことはできないだろうかという声がどこからともなく湧き起こってきた。一九九〇年の二月一九日、第三六回宣教協議会の開かれた天城山荘の食堂で、この話を単なる卓上語録に終わらせない方途を探るべく、小さな一歩を踏み出すことになった。一度始めればそう簡単にやめるわけにはいかない。専従のスタッフがいるわけではなく、牧師たちが手弁当でやり抜く覚悟が求められた。幸いにして共にこれを担う同士が与えられ、素案を練つて一ヶ月後の三月一九日、第一回の拡大編集委員会を目黒の白金教会で開かせて頂いた。当初は発行人を神学委員会とし、その名目の下に実務委員を置くという方式を採ったが、紙面造りに関しては実務を担う若手牧師(当時はまだ!)の自由裁量に委ねて下さったことで、比較的自在に動くことができたことを感謝している。その年の十一月、何とか第一号の創刊にこぎつけ、最初の巻頭論壇を飾った上良康先生が新宿の高層ビルにスタッフを集め、労をねぎらって下さったことを思い出す。

 その時の巻頭論壇のタイトルは「一八九〇-一九九〇」であった。創刊の年は、帝国憲法に基づく帝国議会招集や教育勅語発布から数えてちょうど百年目に当たっていた。しかもこの年、日本基督一致教会は自前の信仰告白を制定し、この信仰告白を規範として教会憲法を定め、名称を日本基督教会に改めて、新たな国民的自由教会の建設に乗り出したのである。一方では明治国家がいよいよ国家主義的な方向へと舵を切り出す時であり、その重大な転換期に教会もまた自らの路線を定め、旺盛な自給独立の精神をもって教会的権能の担い手として伝道と教会形成に打って出ようとしたのである。この明治二十三年を皮切りに植村正久もまた『日本評論』、『福音週報』、『福音新報』を矢継ぎ早に出している。その後国家主義の動きは日清、日露、十五年戦争へと拡大の一途を辿り、太平洋戦争の終結をもって敗北した。教育勅語も戦後の教育基本法に取って代わられた。その折りの巻頭論壇が述べていたように、百年後の今日、変わらざるものとして残ったものは生けるキリストに対する教会の信仰告白であった。

 現在私たちのまわりでは、新たに教育基本法の見直しが叫ばれ、愛国心の発揚が求められている。戦後の知識偏重の偏差値教育が見直され、心の教育がクローズアップされることは結構なことであるが、それが復古的な国家主義と結びつく点が大いに気になる。むしろ過去の国家主義敗北の歴史を反省し、適切な国際感覚に基づく人格教育の確立をこそ求めるべきであろう。その点でキリスト教の担ってきた歴史的役割は依然として大きいはずなのである。私たちの協議会が白前に雑誌を持つということは、一つには信仰告白を規範としてキリストの主権の下に教会を建てるという教会論的道筋を自ら明確にし続け、それを改革長老教会の伝統から繰り返し学び直し、教理によって訓練され、それをもって次世代の牧師、長老、執事の育成に資するためである。堅い読み物であることに私たちは気後れを持たない。だがしかし、同時にその言論は内向きなものに終わってはならず、広くこの時代社会に対しても福音の言葉が新鮮なものとして届くものとならなければならないであろう。たとえ数限られた読者ではあるにしても、その一人ひとりがキリストの教会という共同体の一員として、この日本に遣わされているという新たな自覚を抱き始めれば、どこかで何かが変わり始めることだろう。表現者であり続けること、それを教会はやめることはできない。


「全国協議会開催に向けて」

金沢教会牧師 宍戸基男

 本年度の主題は「信仰告白は教会のきずな」と決定されました。信仰告白は教会の根幹にかかわるものですが、わたしたちの教会はこの点に関し、曲がりくねった歩みをしてきました。第一は、わたしたちの日本基督教団はその成立時(一九四一年、昭和十六年)信仰告白はなく、教義の大要があるのみでした。その大きな理由は、教会としての合同ではなく、この世の法、すなわち宗教団体法の圧力のもとに三十余派の福音主義教会がいわば合同させられたからでした。第二は、したがって、戦後、さまざまな教派の教団からの離脱が相次ぐ中、教団全面解体を危惧する声が上がり、教義の大要を脱して信仰告白制定の動きが活発となり、紆余曲折をへて、教団成立から十三年目の一九五四年(昭和二十九年)、現在の信仰告白が制定されました(この間の歴史的事情については最近出版された『二つの信仰告白に学ぶ』関川泰寛著、全国連合長老会二〇〇三年、二十一〜四十一頁)を参照)。第三は、一九六〇年代後半からの教団紛争による教会解体の様相を呈する中で、教会の礼拝、伝道、聖礼典、職制が混乱してきました。しかしそこから改めて信仰告白の重要さに気づいていきました。この点は大きな代価を払いながらも、わたしたちは教会の依って立つべき基盤としての信仰告白に改めて注目するようになっています。

 わたしたちは過去をただ顧みるだけでなく、常に教会の根源に立ち返りつつ、前方に向かって進んで行かねばなりません。信仰告白についていえば、わたしたち日本の諸教会はその根本的な理解を十分にわきまえ、また繰り返し学んでいく必要があるのではないでしょうか。なぜならば、わたしたち日本人は信仰内容よりも信心することの方を大切なものとしてきた傾向があるからです。信条よりも心情。これが日本的な姿です。日本の諸教会に広く受け入れられている代表的な信仰告白である「使徒信条」についても、その根元的な理解を確かめておくことは重要です。

「使徒信条は『われ…を信ず』と語っている。そして一切はこの「〜を」に懸かっている。使徒信条はこの「〜を」を、われわれの主体的信仰がそれによって生きるこの信仰の対象を説明するものである。「われ信ず」というこの最初の言葉を除いては、使徒信条が信仰の主体的事実について沈黙しているのは、注目すべきことである。そして、この関係が逆になった場合―すなわち、キリスト者が自分の行為について雄弁になったり、人間において生起したこの事実の興奮・感動について雄弁になって、われわれが信じることを許されているものについて沈黙した場合、それは、何ら良き時ではなかったのである」(Kバルト『教義学要綱』)

 わたしたち日本の教会は、信仰の対象である父・子・聖霊の神への徹底的な服従を貫くことに、根本的な弱さをもっています。それをあいまいにして、伝道伝道と気勢を挙げることは戒めなければなりません。信仰告白はわたしたちの教会の礼拝と伝道を規定するものです。信仰告白の内容を問うことなしに、人間の側の行動だけが問題とされるとき、決して良き時とは言えません。

「余輩は示威(注)的伝道の行なわるよりも、地味なる精神活動の一層深く心がけられんことを求む。日本は夜襲的に教化せらるべからず。堂々たる戦いをもってキリストの治下にすすめられざるべからず」(植村正久『福音新報』六一五「示威的伝道」)

 教会活動の基礎である礼拝と伝道は、信仰告白の上に立ってなされていくのです。信仰告白は、一片の紙切れではありません。父・子・聖霊なる神への信頼と服従の中で、歴史の重荷を担いつつ、前進しようではありませんか。

(注)示威(じい)「威力を示すこと。気勢を見せること」(広辞苑五版)


西日本協力伝道会の歩みから

庄原教会牧師 松島敬三

 改革長老教会を志す「西日本協力伝道会」は、研修会を隔年ごと取り組んできた。今年は第五回、一〇年目を迎えている。これまでに聖書正典(講師―川村輝典牧師)、信仰告白(講師―三和紀夫牧師、磯部理一郎牧師、東野尚志牧師)の学びを続けてきた。この一〇年間培って来たことはきわめて貴重であり、その意義は非常に大きいものがある。

 今年は、六月に「教会と制度」について関川泰寛牧師を講師にお迎えする。長老制度をめざす教会の第一歩として、少しでも多くの牧師、長老と共有したい。

 庄原教会のことで恐縮だが、今年の総会で、「全国連合長老会加入を志向する件」を可決した。提案の理由として、私はこう説明した。「どのような道程を主なる神様はお考えか想像もできません。アブラムがカルデヤのウルを、行き先を知らないで、信仰のみによって、出で立って行った時と同じ心境である、と言えば、大げさと思われるかも知れません。しかし、どんな試練がありましても、それは実に光栄なのです。祝福を約束し、志をお与えくださった主が、これをなし遂げる力をも、十分満たしてくだっていると確信しているからです。」と…。

 これは、いかに遠い道程でも、その時が熟すことを祈りの課題と受け止めて歩むことの、喜びにあふれた、わたくしどもの決意です。

 苦闘し、御名によって前進する各地の連合長老会を覚えて、信仰告白を共有する教会として立って行きたいのである。小さな「西日本協力伝道会」もまたひとつの改革長老教会の核となり得ると信じる。御言葉によって絶えず改革され、神を畏れ、常にプレスビテリーへの道を視野に入れつつ、まことの福音主義公同礼拝の確立に向かってたゆまぬ祈りをもって前進させて行きたい。そこでしか、連合長老会も、日本基督教団改革長老教会協議会の将来も見えてこないと思うからである。


関東改革長老教会協議会報告

東大宮教会牧師 山ノ下恭二

 関東改革長老教会協議会に参加している教会は上尾合同教会、宇都宮教会、宇都宮東伝道所、大宮教会、鹿沼教会、鴻巣教会、館林教会、東大宮教会です。栃木、群馬、埼玉の教会です。

 二〇〇二年度は長老研修会として七月二十一日(日)に「長老会、長老は何をするのか」というテーマで山ノ下牧師が講演を致しました。(六教会四〇名)。十一月十七日(日)に「長老会、長老の職務」―アメリカ改革派の規則から(1)のテーマで秋山牧師が講演をしました。(六教会三十一名)二月九日に長老研修と総会を行いました。二〇〇二年度から各教会の牧師、長老一名ずつ選出で委員会を二回行いました。

 二〇〇三年度は会長に山ノ下恭二牧師、書記に高崎正芳牧師(鹿沼教会)、小林明子長老(宇都宮教会)、会計に結城恭子長老(大宮教会)が選ばれました。二〇〇三年度には六月二十九日、十一月十六日、一月二十五日、に長老研修会が予定されています。咋年は牧師会は十月に一回しか開けませんでしたので、今年度は努力して開きたいと思います。

 二年間、無牧であった宇都宮教会に四月から清野久貴伝道師が着任し、活発に礼拝と伝道がなされました。改革長老教会の伝統を背景で育った教職を迎えることができ、喜んでいます。今後とも連帯していきたいと思います。宇都宮東伝道所、鴻巣教会は現在、無牧です。改革長老教会の伝統をもった教職が与えられるようにと祈っています。

 関東協力伝道会は一九四七年の協力伝道会から出発しており、歴史はあるのですが、内容はこれからというところで関東改革長老教会協議会と改称され、関東改長協も前進しているとは言えません。地道な学びと連帯によってこの関東の地に地域長老会議が設立できるように祈りつつ、励みたいと思います。


青年に同世代の友を

第六回青年修養会実行委員長 海老名教会牧師 寺田信一

 現代日本における世の諸霊は、DATSVSOGがその代表選手である。これは外国人ではない。ドラッグ、アルコール、タバコ、セックス、バイオレンス、ショップリフティング、オカルト、ギャンブルの頭文字である。「ダッツに対抗するオジさん」と覚えればよい。

 彼らはおとなしくしていない。中でも一番狙われやすいのは孤独な青年である。独りでいる青年にラブシャワーを浴びせ、その肉体と生活を蝕んでいく。そのようにして一個の人格を物扱いするのである。そして、たとえ教会につながってはいてもなお孤独感を味わっているような青年もまた、彼らの標的にならないとは言い得ない。自問せねばなるまい。我々は青年のコンプレックスや挫折、そして孤立感や死に対する恐怖を、果たして共有し、泣いているであろうか。また、罪からの救いをどれほどの大きさで、青年と共に喜んでいるのであろう。

 世の諸霊の総攻撃には、既に主が勝利していらっしゃる。その主に滅びから願われた者にとって、神礼拝はセレブレーションである。しかし、それが形骸化するならば、救い主をも物扱いしていることに他ならない。我々は、礼拝者に必要な聖なる孤独と、世の諸霊に狙われている肉の孤独とを、青年自身が判別し、整理し、健やかに歩み得るために献身したいと願う。「青年がひとりもいない」と言って嘆いている教会に参加者を求めはしない。だが、貴重なひとりを授かった教会には強く要求する。そのひとりだけで構わないから、今年も青年修養会に寄越してほしい。そして「同じ神を礼拝する同世代の友が、全国にはこんなにいるのだ」と実体験させてほしい。

  • 会 場 関西セミナーハウス
  • 期 間 7月29―31日
  • 参加費 2万円
  • 主 題 「礼拝者として生きる」
  • 事務局 委員・高多新 0739-47-5022
  • 聖 書 ローマ12:1以下

    事務局報告

     阿部祐治