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巻末通信

野の道、森の道

▼「ヴァン・ゴッホの画から僕らは、その靴がどこにおかれているのか、それすらも確定することができません。・・・・・一足の百姓靴、ただそれだけです。それなのに。この靴という道具のくり抜かれた内部の暗い穴から目をこらしてみつめているのは、労働の歩みのつらさであります。この靴のがっしりした重みのなかに、風がすさぶ畑のひろくのびて単調なあぜをのろのろと歩いたあゆみの根気がこめられています。革には土のしめりと飽和があります。踵の下には暮れかかる夕べの野みちの寂莫が足摺りをしています。靴のなかには、大地のひびきのとまった呼びごえが、熟れる麦の贈与をつたえる大地の静寂が、冬の野づらの荒れた休耕地にみなぎる大地のわけしらぬ拒絶が揺れております。この靴をくぐりとおるのは、パンの確保のための嘆声をあげない心労、ふたたび苦難を克服することができたということばにでないよろこび、生誕の到来による武者ぶるい、死の威嚇による戦慄が揺れております」(M・ハイデッガー『芸術作品のはじまり』菊池栄一訳)。たった一足の靴が、ふだんは忘れ去られている道具としての本質を垣間見せたのは、それが芸術作品として表現されたからであると、ハイデッガーは言う。『森の道』に収録されたこの講演は、物が存在するということにもはや不思議さも有り難みも感じなくなってしまった現代という時代に、もう一度物が存在するとは何かという根本的な問いを投げかけている。このさりげない一文を読むたびに僕は、生活者の位相にまで言葉の触覚を伸ばすこの思想家の、類いまれな詩人的素養を思わせられ、感動してしまう。

▼同じ講演の中でハイデッガーはギリシア神殿について触れる。神殿が芸術作品として神殿であるのは、堅い大地の岩盤の上にどっしりとその量感を押しとどめながら、天を指し示すことによってであり、逆に天はその光を神殿の石材にまとわりつかせ、その陰影を通して、初めて存在を明るみに出すのである。ゴッホの作品が生活者の位相から道具としての物の存在を浮き彫りにしたように、神殿という作品は天の存在を、大地にとっての不可欠な存在として指し示す。ゴッホといいギリシア神殿といい、その芸術作品は、存在を確かめる手触りの物を失い、大地を支える天を失った現代の世界にとって、未だに暗示的であり続けている。

▼ハイデッガーにとって思索とは、言葉を通してこの忘れ去られた存在に向き合っていく行為である。『森の道』と並んで、彼の思索の道程を表現した小品に『野の道』がある。ドイツの黒い森にある故郷メスリンゲンの村。菩提樹の広場から城門を出、野辺を巡り、森の樫の木から再び教会の鐘楼へと戻ってくる散歩道。そこには、牧場を吹き渡る風と共に、真理の目配せが満ちている。樫の木は少年に、「このように成長することの中にのみ、久しきに耐え、かつ実を結ぶものは基礎づけられる」と教える。「成長するということは、空高く枝を張ると共に、大地の闇の中に根を下ろすことを意味する。・・・・・最も高き空の呼び声に耳を貸し、大地の保護の中に支えられる時、すべての堅実なものは栄える」。野の道は思索する者に、天と地の存在を開き示している。しかしハイデッガーは言う。「現代の人々は、ますます野の道の言葉に耳を閉じようとする。そうした危険が迫りつつある。彼らの耳に心地よく響くのは、今はただ機械の騒音のみであり、機械を彼らは神の声と見なすのである。かくて人間の心は散乱し、道は失われる」。「野の道の穏やかな力」によってしか「原子力の巨大な力を越える」ことはできないはずだというのに。

▼ドイツのオーデンの森近く、ある大学町の郊外に人口八千の小さな村があって、四年間そこに住んだ。麦畑の間の野辺の道を行くと、鹿の大地と呼ばれる森があり、ギムナジウムで宗教を教える教師に誘われてよくそこを歩き回った。広大な森が自分の庭のようになった頃、一人出かけては論文の想を練った。今にして思えば至福の時であった。見つけようと思えば、今自分のまわりにも野の道は存在する。だが果たして現代にあって野の道は、教会の鐘楼へと通じているだろうか。

(TH生)


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