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巻末通信

芸術、学問、そして政治

▼日本政治思想史の研究に蒙を開いた丸山眞男の着想がすぐれて音楽的であることはつとに指摘されていることであった。たとえば日本思想の底流として脈々と流れている原型的な古層を表現するために、丸山はきわめて専門的な音楽用語「執拗低音(バッソ・オスティナート)」という概念を用いることをはばからない。執拗低音とは、主旋律の背後で執拗に繰り返される低音のパターンで、そのままの形では独立の楽想にはならないものの、隠れた仕方で主旋律の上声部に影響を与え、実質的に曲想を支配するもののことである。日本思想はこれまで仏教や儒教、西洋思想を取り入れてきたが、その際奏でられる主旋律が変化しても、その底流には決して変わることのない共通した特徴があり、その外来思想を修正する一定のパターンに特に日本的なるものが表れているというのである。このような着想は単なる付け焼き刃的な音楽趣味から生じるものではありえない。

▼数万枚のレコード、録音テープを収集所蔵しているというほどの音楽愛好家であれば、市井にいくらでもいるであろう。丸山のすごさはそれに加えて、書架に膨大な量のスコアー(楽譜)を集め、そこに丹念に書き込みをし、寝る時も傍らに置いていたという入れ込み様である。上演にすら十五時間もかかるヴァーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」四部作の全スコアーに、ぎっしりと青い丸山のインク字が躍っている(私淑していた中野雄の証言と写真による)。以来私は丸山の学術論文の背後に、音楽的な着想を発見する楽しみを覚えるようになった。もちろん直接音楽史を分析して見せる場面もある。たとえば、ハイドンやモーツァルトは晴朗で歯切れ良く、すっきりしている。ベートーヴェン以降のロマン派の音楽は時には重くしっとりと感情を歌い上げるところがある。その違いはソナタ形式の時間的なズレにあると丸山は見る。一度提示された主和音が展開部で変容され、再び元の主和音に戻る。この時すぐに戻れば単純明快である。しかし変容の時間が長ければ解決も長引き、ウジウジしてすっきりしない。しかしそこにまた曲想の陰影や荘厳さがにじみ出るのである。

▼展開部が異様に長く、それによって荘厳で気宇壮大な世界を芸術的に表現した最たるものはヴァーグナーとブルックナーであろう。丸山は指揮者フルトヴェングラーに魅せられて、恐る恐るヴァーグナーのオペラに近づく。恐る恐ると言うのは、ヴァーグナーを愛した一人の独裁者の狂気を知っており、個別的には抵抗しつつも結局ファシズムの牙城ベルリンで棒を振り続けたフルトヴェングラーの政治的な曖昧さに、割り切れないものを感じていたからである。それは、永遠の芸術に生きようとする者が地上の政治的プロパガンダ(宣伝)に利用された現代史の悲劇であった。確かに芸術の名の下で過去を免罪すべきではない。我々はただそれを自分の問題として担い、芸術的価値の不滅性を守るためにも、政治的狂気に対しては醒めたまなざしで、それが増殖する芽を摘み取る文化的共闘を組むしかない。

▼地方都市にはたいてい一つくらいはオペラ劇場があるもので、近くのマンハイムにそれがあった。学生割引であれば驚くほど安い。若きフルトヴェングラーはここで歌手や合唱団に練習をつける下積みの経験を五年している。その劇場で久々にヴァーグナーの「ニーベルングの指輪」をやるというので、日曜日ごと連続四夜足を運んだ。レクラム文庫を買ったが丹念に読んでいる時間もない。毎日小冊子で今日の分の配役とあら筋を頭に入れて臨んだ。最終日、最初の幕が下りる。すると突然一人の紳士が立ち、舞台に向かって叫んだ。「我々はヴァーグナーの芸術を聴きに来たのであって、長時間田舎芝居につきあいに来たのではない」。緩んでいた空気が一瞬にして張りつめたものに変わる。舞台の下にいた指揮者が台に立ち、次の幕開けの指揮棒を振る。すると傍目にも明らかに、今までの単調さと打って変わって、繊細できらめくような音色の響きがあふれ出てきたのである。弾く方も聴く方も懸命である。最後の幕が下りた時、会場は歓呼のエールに包まれた。

(TH生)


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