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巻末通信

ニューヨークの「衝突」

▼ニュース・キャスターが航空機激突の第一報をあわただしく伝える背後で、画面が一瞬にして崩れ去る世界貿易ビルを映し出す。リアルタイムで見る映像として、これほど世界中を震撼させたものもないだろう。現地のキャスターの繰り返す「クラッシュ(衝突)」という言葉を聞いて思わずハッとする。数年前話題になったハーバードの政治学者ハンチントンの本の題名は、まさに『文明の衝突』ではなかったか。一九八九年ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦構造は終わりを告げた。その後の世界を統合再編していくものは、もはや政治的イデオロギーではなく、共通の文化、歴史、民族、価値観、宗教となるであろう。だからこれから起こる戦争は、こうした文明圏どうしの断層で起こる地域紛争になる。そう彼は分析した。この予言が皮肉にも八年後のニューヨークで現実となる。彼が夢にも思わなかったことは、まさかそれが自国の文明の中心で起こるということではなかったか。

▼もちろん一部の過激なイスラム原理主義者たちによるテロリズムの凶行を、単純にイスラム文化圏によるアメリカ文化圏への「衝突」と見なすことはできないし、イスラム教対ユダヤーキリスト教という宗教戦争の図式に当てはめることも適切ではない。しかし、政治思想史的に鳥瞰すると、湾岸戦争と共に冷戦後の世界の構造的変位がマグマとなってここに噴出しているのを否定することはできない。F・フクヤマは『歴史の終わり』の中で、人間の誇り高き自由としての「気概」を無視した社会主義の崩壊を、リベラル・デモクラシーの最終的勝利として位置づけたが、その彼も現実のリベラルな社会の中で「気概」が低俗化し、ただ私利私欲を追求する物質的な貪欲の虜となる可能性も見ていたのである。

▼佐伯啓思氏は、リベラル・デモクラシーが普遍的価値としてグローバル(地球規模)化するのに決定的な役割を果たしたものは二十世紀のアメリカニズムであると言う。世界のデモクラシーを守るためにと言って第一次世界大戦に参戦したウィルソン大統領の十字軍的使命感は、第二次大戦中のルーズベルト、戦後のスターリン的全体主義に対するトルーマン・ドクトリンに至るまで、貫かれた理念である。しかし問題は、その守るべきデモクラシーの内実が十九世紀と二十世紀では、大きく変化しているという点にある。佐伯氏によればデモクラシーを目に見える仕方で日常化した社会構造は、誰でも同じように権利を主張できる「大衆社会」であり、それを支えるものがフォード型経営に見られる大量生産・大量消費のシステムである。ここに既にデモクラシーの中身が政治的自由から経済的自由へと入れ替わる土壌ができ上がる。その基盤の上に、「消費者」が経済の主役となり「世論」がそれを操作する市場デモクラシーが成立する。多国籍企業による経済市場のグローバル化は冷戦終結により更に加速し、投資エキスパートやファンド・マネージャーたちによる国境なきマネーゲームが主権国家の政策を左右するまで(例えばアジア金融危機とスハルト大統領の辞任)に至っているのである。

▼そのような変移の中で最も危惧すべきことは、グローバル・エコノミーの進展が、ニュー・イングランドのデモクラシーにはあったはずの公共的な価値規範を希薄化し、無国籍的営利活動が共同社会のアイデンティティーを崩壊させてしまうという事態である。もはや冷戦時代の二極化による「力の均衡」を失った今、この精神の空洞に、強烈な集団的アイデンティティーを掲げた民族主義や宗教的原理主義が入り込んでくる。マクドナルドが世界中の駅前で店を開けるたびに、経済的敗者たちが地下でジハードへの忠誠を誓う。

▼まだ我々はリベラル・デモクラシーという「歴史の終わり」に立ち会っているわけではないし、自由を求めての人類の歴史の「最後の人間」でもない。自由、平等、平和、人権、寛容という公共的美徳をもった共同社会をデモクラシーはどのように実現できるのか。人間の変革なしにそれは可能なのか。バラバラになった個を一つにまとめる力は何か。宗教が危険なのではない。むしろ無宗教で美徳なき経済支配の作り出す精神の空洞にこそ狂気が入り込む。今、冷静な宗教的情熱が求められる。

(TH生)


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