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巻末通信

「風の谷のナウシカ」その後

▼エッセイとコラムの違いは、つれづれなるままのエッセイに対して、コラムには定期的な締切があるということらしい。それでコラムニストは書き終えた瞬間から次のテーマで頭を悩ます。名コラムニストボブ・コンシダインの出だしはこうだ。「今日は書くことが何もない」。そしてまじめに身辺の行動を書き綴った。私がそんなことをすれば、最近怪我をしましたくらいの報告になって、またですかと冷笑を買うだけのこと。そこで今回はごく軽めに漫画の話をしたい。学術論文、随想からSS教案までの総合雑誌を目指す本誌であるが、本号がちょっと硬めに寄った感があるので、こういう話題もお許しあれ。

▼アニメ作家宮崎駿の名を最初に広く知らしめたのはご存知「風の谷のナウシカ」である。劇場用アニメとして空前の大ヒットとなった。知る人ぞ知る筋書きだが、ざっとさらっておく。舞台は、巨大産業文明が火の七日間と呼ばれた世界大戦で崩壊し、腐海と呼ばれる廃棄物の広大な森に覆われた地球である。たえず毒ガスを出す胞子が飛び交い、人間はマスクをつけずには腐海に入れない。腐海を焼き払おうとすると、巨大な芋虫にも見える王蟲の大群が押し寄せてくる。その中に、海からの風を受けて辛うじて毒ガスから守られ、風車で地下水を汲み上げて平和な暮らしを続ける小さな谷があった。その族長の娘がナウシカである。彼女は空中を自在に駆けめぐるハングライダーを持っている。ある日軍事大国トルメキアが侵攻してきて谷を占拠する。旧世界が開発し、自らを滅ぼした最終核兵器を再び解き放って腐海を焼き払い、世界を征服しようと企てる。しかしナウシカは知っていた。腐海の底に清浄な湖があり、それがいつか地上を浄化してくれる時が来ることを。腐海の木々は大地の毒を体に取り込んで、きれいにしてから死んで砂になる。王蟲はそれを守っているのだと。怒って暴走してくる王蟲の大群を静止できるのはもはや巨大な超兵器巨神兵ではない。少女ナウシカの身を挺しての優しい語りかけであった。「さあ、もう森にお帰り」と。

▼サブカルチャーが子どもや若者に与える影響は見過ごしにできない。そういう視点から何人かの識者が書いた宮崎駿論に注目してきた。驚かされることは宮崎がアニメ成功後更に十年かけて漫画版「風の谷のナウシカ」を完成させたことだ。筋書きは同じではない。特にその先が大幅に書き加えられている。アニメ版でも既に腐海の存在は両義的で、産業文明によって破壊され毒ガスを出す存在ではあるが、その奥底ではゆっくりと毒を浄化する場でもあり続けていた。腐った自然にも、巨視的なスパンで見ると、なお自浄作用があったとも受け取れる。自然以外に自然を癒すものはないということか。しかし漫画版ではそのような文明対自然の単純な構図は飛んでしまう。青き清浄の地に着いたナウシカは、初めて庭の牧人から真相を知らされる。腐海の存在と共に人間の存在も素から変わってしまったのだ。人間もまた同じ生態系の中にいて、腐海の粘菌や虫たちと通じ合い、汚れている。浄化された世界が来れば生きられない。アニメ版において少女ナウシカは「青き衣をまといて金色の野に降り立つ」伝説のメシア的存在になったが、宮崎はそれを自らの漫画版において否定する。世界を浄化することは誰にもできない。まして世界の浄化を、自ら正当化した暴力によってもたらすことはできない。目的地はないし、メシアはいない。人間を含めた生きとし生けるものの一体なる世界は、癒されない悲しみに耐えながら、今の命を愛おしみつつ懸命に生きるのがよいのである。宮沢賢治的な世界を思わせる。

▼漫画版完成の後、オウム事件が起こった。左翼革命の過ぎ去った精神的空洞の中で、彼らはしかし、宮崎氏の発したメッセージを読み違えてしまったことになる。冷戦崩壊後の精神的空洞の中で旧ソ連中央アジアの若者たちがイスラムに走り、西欧文明に汚染された世界の浄化に加担した。その結末を日本の子どもたちは今どう受け止めているだろう。つらいことも悲しみも笑って乗り越える力を与えてくれる宮崎氏のファンタジー作り。そこに時代の陰影が映し出される。

(TH生)


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