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巻末通信

ペンテコステのバラ

▼まもなく聖霊降臨祭の休暇がやって来る。二階のローザおばさんが自慢にしていた花の一つ、プフィングスト・ローゼ(日本で言うシャクヤク)が裏庭で見事な大輪の花を咲かせた。ペンテコステの頃こぼれるような花弁を咲き誇らせるので「ペンテコステのバラ」と呼ばれるのよと、顔を合わせるたびに裏庭に連れて行かれ、時間などおかまいなしにいつも詳しい説明を受けた。必ずドイツの戦前・戦後の苦労話をひとしきり聞いてでなければ、花の説明にたどり着けない。それでこの花の麗姿は、これもまた自慢のフリーダー(ライラック)の香りと共に、しっかりと五官に染みついて、爽やかな季節が巡る来るたびに甦ってくる。

▼ちょうどそんな頃であったか、今はハンブルク大の神学部教授になっている議論好きの友人が、ペンテコステを表現する芸術はモーツァルト以外にありえないと息巻いた。S教授のゼミでバッハの受難曲の神学的意味を学んできた帰り道のことである。受難曲まではバッハでよい。神からの棄却と人間的苦悩を極限まで表現するには、ああいう荘厳さがなければならない。復活も、最後の敵である死に対する決定的な勝利を表す以上、喜びの響きは壮大でなければならない。だがペンテコステは違う。ペンテコステとは、あたかも陽の光につぼみがほころんで花を開かせるように、天上の喜びが降り注いできて、重力に閉じこめられた地上の存在を解き放つもの。だからその天的な無限の軽やかさを表す芸術はモーツァルトの音楽しかないと言うのである。聞きながら僕は裏庭のペンテコステのバラを思い浮かべていた。

▼春先、エルガーのオラトリオ「神の国」を東響が取り上げるというので、何とかやり繰りをして、池袋の東京芸術劇場に足を運んだ。このオラトリオの主題はまさにペンテコステなのである。エドワード・エルガーには、ローマに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマンの宗教詩による「ゲロンティウスの夢」という作品があるが、「神の国」は使徒言行録を中心とした聖書テキストに忠実に従っている。物語は、「上の間」に使徒たちと婦人たちが集まっているところから始まる。裏切りのユダに代わってマティアが十二使徒の一人に選ばれる。「美しい門」の前では母マリアとマグダラのマリアが、イエスのしたことを改めて思い起こして二人で歌う。「イエスは彼らの悲しみを知り、その弱さを自分に引き受け、彼らの病を担われた」。そして上の間に集まっていた使徒たちの上に聖霊が降る。怖じ逃げまどっていた使徒たちが今や迫害をも恐れぬ主の復活の証人となる。美しい門の前で足の不自由な男を癒し、主の御名によって歩く人生を始めさせる。こうして使徒たちの物語が、時にフォーレのレクイエムのように慰めに満ち、時にブルックナーの破急的な激越さをもって再現されてゆく。中でも最も印象深いのが、ペトロとヨハネが捕らえられ、牢獄に送られて日が暮れる場面に歌われるマリアのアリアである。「夕陽が沈んでいきます。主が今、闇をもたらし、夜が訪れました。夜の見つめる中で、私は自分の心と向かい合い、ただあなたのことを思い巡らします。『主のために迫害される時、あなた方は幸いなり。人々は彼らを議会に引き渡す。彼らは主の名のために人々から憎まれる』。このすべてのことが今彼らに起こったのです。喜びなさい、あなた方は主の御苦しみを共に分かつ者。主の栄光が現れる時、あなた方も無上の喜びに包まれます。・・・神の国と忍耐はイエスのうちにあります。・・・主が今、闇をもたらし、夜となりました。私はただ主のことを思います。今宵も主の歌が私と共にあり、私の命の神に捧げる祈りが共にあります」。当日の佐藤しのぶは、静けさの中に決然たる思いを歌って圧巻であった。

▼思うに、これがペンテコステではないだろうか。天上の喜びに暗い心が軽やかに舞い上がることも起こるだろう。しかしそれは、ペトロたちの獄中、再び闇が覆う中でこそ起こるのである。だからペンテコステの音楽も、獄中と闇の低音をなお伴う。エルガーがオルガンの深い響きで表したように。ただそれが、もはや戻りえない決定的な明るさによって、中心から周縁に追いやられているのである。会場のホールから地下道へと抜ける。闇はもはや中心にない。

(TH生)


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