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巻末通信

セントラル・パークの老婦人

▼ユダヤ博物館を出て、セントラル・パークを横切る。高層ビルをバックに大勢のニューヨーカーたちが思い思いのペースでジョギングに汗を流している。木陰のベンチで涼を取っていると、娘に付き添われ隣に座っていた老婦人が話しかけてくる。長崎に知人がいると言う。ユダヤ博物館の話をすると、彼女もリトアニア生まれのユダヤ人で、若い時ウィーンにいたが、戦争でイギリスに渡り、夫と共にアメリカに移住して来たのだと、まるで懐かしいふる里の昔話でもするかのように話してくれる。宿の近くにシナゴーグがあるせいか、この界隈ではヤムルカ(小さな帽子)を着けた若者とよくすれ違う。

▼アメリカの社会が宗教に寛容であるのは、最初の入植者自身が信教の自由を求めてやって来た非国教徒だったからだと言われる。確かに自由を求める移民たちの集合から出発しているのだから、基本的には寛容である。だがそれが、あまりにも異質な伝統と生活習慣を守り通そうとする集団である場合、排除の論理が働くことに例外はない。アメリカのユダヤ人もまた相当の修羅場をくぐり抜けて来た人々である。最初は環境に柔軟なスファラディーと呼ばれるスペイン・ポルトガル系のユダヤ人が入植する。その後伝統を墨守するドイツやポーランド系のアシュケナージ派が移民してくる。更にポグロム(大虐殺)によって帝政ロシアを追われた難民が大量に押し寄せる。そしてナチズムからの亡命である。彼らが土曜日に安息し、ユダヤ式食事(コシェー)をとり、イーディッシュ語の新聞を読み始めるや、ここでも冷たい反ユダヤ主義の風が吹き始める。だからゴイム(非ユダヤ人)の仮面をつけて暮らすことがこの国での彼らの掟となった。家ではユダヤ人、街では人間になれ。これが合い言葉であった時代は、それほど遠い話ではない。ユダヤ人のフロイトは抑圧された自我をイドと呼んだが、一説にイーディッシュ語で、偽装した自分の中の「小さなユダヤ人」と音声がかぶるらしい。かぎ鼻の整形と姓名変更がはやったのは一九五○年代のことである。ワーナー・ブラザーズは名残を留めているが、トニー・カーティス、カーク・ダグラスなどは改名して成功した例である。

▼こうした逆境の中から数々の立志伝が生み出されていったことは驚くほかはない。名門中の名門、最古参にして最大手のデュポン社が堂々とユダヤ姓を名乗るアービング・シャピロを代表取締役にしたのは一九七九年のことで、当時「度肝を抜く大抜擢」と呼ばれた。その頃フォーブス誌が選んだ富めるアメリカ人四百人のうち二三%はユダヤ人であり、ノーベル科学賞受賞者の三○%がユダヤ人である。ここまで来れた理由は色々ある。彼らがもはや戻るべき土地を持たない故郷喪失者であったこと、運命主義ではなく、強烈な未来指向と企業家精神を持つ民族性などが挙げられる。ともあれこの実績が、肩身の狭い思いからユダヤ人の若者を解放し、出自を隠す卑屈さを取り除いたのは確かである。

▼しかしこの安堵感は逆にユダヤ人のアイデンティティーを揺さぶる結果を招いた。簡単にユダヤ人でいられることは、簡単にユダヤ人であることを放棄することをも可能にする。ユダヤ教三代消滅説がアメリカで証明されるかに見えた。祖父は信じ、父は疑い、息子は否定する。祖父はヘブライ語で祈り、父は英語で祈祷書を棒読みし、息子はまったく祈らない。 ユダヤ人が実質的な市民権を得るのとは裏腹に、伝統の根幹にあるユダヤ教の選びの信仰がひそかに薄らいでゆく。しかし今新たにユダヤ・コミュニティーへの回帰が始まっているという。日用品からライフ・スタイルまで、何から何まで個人の選択に委ねられている現代社会の中で、行き過ぎた個人主義に疲れた人々が人生の究極的な意味を宗教的伝統に求め始めている。礼拝共同体の中に彼らは、自分が何かしら自分を越えるもっと大きな神秘的なものの一部であることを見出すのである。それが狭い民族主義を乗り越える、更に大きなものであってほしいと切に願う。握手をし別れた道の曲がり際、振り返ると老婦人が僕にもう一度手を振ってくれた。

(TH生)


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