牧会の心
 ―震災の経験から教えられること―

川島 直道





「共通の体験」がもたらす交流
 二〇一六年四月一四日から一六日にかけて発生した二回の震度七を中心とする一連の熊本地震は、熊本、大分両県にまたがり甚大な被害をもたらしました。それはそこに暮らす多くの人々の日常を一変させました。地震は、家屋のみならず、その土台となる地盤をも破壊し、まさに人々の生活はその根底から崩されたのです。もちろん教会員も例外ではなく、家を手放して仮設住宅に住み始めた人々、遠く県外に移住された人々も多く、慣れない生活に戸惑いを感じながら、あるいはそのような環境の変化になかなか適応することができず、体調を崩されるケースも明らかに増えてきています。震災の傷は想像以上に深く、教会は長期的な視野を持って被災者の支援、牧会を継続的に行っていく必要があると感じています。
 震災以後よく経験することですが、全く面識のない人どうしが震災をきっかけにして新たな関係を構築していくということがあります。「大丈夫でしたか」「あの時はどうしていましたか」自然とそういう対話が生まれ、震災の体験を共有するのです。それはそのような特殊な体験を通してではないと得られない貴重な交わりだと思います。
 日々の牧会の中でも、例えば、訪問の時の話題が変わってきたことを感じています。必ずと言っていいほど、地震の話になります。NHKの東日本大震災の関連の番組に『あの日、あの時』という短い番組がありますが、その中での被災者の証言と同じように、あの日、あの時、何をしていたか。自分がどのように行動したか。その時に何を感じたのか。そういうことが話題になるのです。人々は、その体験を本当に昨日のことのように語ります。そして「そうでしたね」「大変でしたね」という相槌の言葉で多くの人たちが涙ぐむのです。話を聴く私も同じ体験をしているわけですが、その体験に寄り添う瞬間に湧き起こる感情をそこで感じます
。  忘れもしません。あの凄まじい本震から三日後、まだ騒然とした状況の中で、被災した教会員、近所の方々と身を寄せ合って、あり合わせの朝食を摂っていた時のことです。西部連合長老会の牧師たちが中心となって自家用車にたくさんの物資を積んで教会を訪ねてくださいました。牧師たちの中には阪神淡路大震災、東日本大震災を経験された方々もおりました。帰り際に数名の牧師が祈ってくださった時に、私はこれまでの張り詰めた思いが一に解けて、自分でも制しきれないほどの感情が沸き起こり、人目を憚らず泣きました。もしあの解き放たれる経験がなかったなら、極度の緊張状態が長く続き心身共に疲れ切ってしまっただろうと思います。それは震災という共通の体験を通して、そこに魂が寄り添うことによって心が解放されるという経験でした。確かに震災は試練であり悲しみでありますが、そのような極限状態の中で心が解放されるという経験は、牧会者としての原点に立ち帰らされる貴重な経験だったと思います。
 被災者の心のケアの中心とされていることは「傾聴」だと言われます。これはこれまでの震災の経験から学んだことでしょう。熊本では現在でも多くのボランティアの活動が継続的に行われておりますが、中でも宗教者たちによる「傾聴ボランティア」は被災者からのニーズも多く、今後も大いに期待される働きだと思います。牧師も牧会者として、日々、人の話を聴く機会が多いと思いますが、その中で意識して臨みたいことは、ただ話を聴けばよいということではなく、そこでいかにしてお互いに魂が触れ合うことができるかということです。そしてそれは共通の体験を通してこそ得られるものではないかと思います。共通の体験が人を結びつけ、魂の交流をそこに引き起こします。震災は誰もが経験するものではありません。あの恐怖や不安を知っているのは、やはり同じことを経験した、ある意味選ばれた人たちなのです。その共通の体験がわたしたちを結びつけ、そこに魂の交わり、真の癒しをもたらすということをこの震災という出来事を通して教えられたように思います。

「共通の体験」としてのキリスト
 こういう話をすると、何かそういう共通の体験がなければ牧会ができないのかという問いを持たれるかもしれません。例えば、自分は震災も経験していないし、病気の苦しみや、愛する家族の死を体験したこともない。それでは牧会はできないのではないかということを考えるのです。しかしそういう考えは、牧会を根本的に間違って捉えているのです。牧会というのは、牧師単独の業ではありません。牧師の個人的な経験やパーソナリティーのような狭く浅いところで成り立つものではなく、そこではキリストによる牧会がなされていることを絶えず意識しておく必要があります。つまりキリストこそが、私たちと共通の体験をされた真の牧会者であられるという信仰です。
 真の神が真の人となられた。教会ではこの「受肉」という出来事を教会の信仰として信じるわけですが、それこそが共通の体験でなくして何でありましょう。神の独り子が私たちと同じ肉体をお受けになられ、人間の罪、その悲惨、痛み、苦しみを共にされた。そのようにして神さまは私たちと同じ体験をなさるのです。しかもその体験はあの十字架の苦しみに至るまで徹底されました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、まさに罪と死に喘ぐわたしの苦しみと同じ苦しみを神さまが体験されたことに他なりません。
 『ジュネーブ教会信仰問答』でカルヴァンは、キリストの陰府降りについて「彼はその人性によって、この窮地に立たれたこと、またこのことのために、彼の神性はしばらくの間、いわば隠れていて、その力を表さなかった」(問六八)と大胆に告白します。キリストは、その神であるご性質をも隠してしまわれるほどに、私たちと一つになられた。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできなるのです」(ヘブライ二・18)そのキリストの共通の体験が、試練の中にある者たちを助けることができる。そこに牧会の根拠があります。牧師が慰めるのではありません。牧師が、真の人となられたキリストを宣べ伝える時に、そこであの共通の体験としての魂の触れ合いが起こるのです。そこで私たちは神さまと出会い、その命の交わりの中に迎え入れられるのです。


「共通の体験」を共有する礼拝
 このことを教会は「聖徒の交わり」と言い表しました。信条を学ぶ者は、この短いフレーズがとてつもなく大きな意味を持つことを知っています。この「聖徒」(sanctorum)は二つの解釈が可能であって、一つは「聖なるもの」すなわちキリストの体への参与と捉えることができること、もう一つは「聖なる人々」すなわちキリストに結ばれた人々との交わりを示します。  前者は特に東方教会においては歴史的に聖餐を意味するものとして捉えられてきました。そのことは私たちの交わりが単に人間的な結びつきではなく、礼拝の交わりであり、キリストそのものを分かち合う交わりであることに気づかせてくれます。元々、「交わり」(コイノーニア)は何かを共有する、分かち合うという意味があり、聖餐に与る私たちはまさにそこでキリストの出来事を共に体験しているのです。もちろん説教もまたそこで神の言葉としての福音が鮮やかに宣言されるならば、それはキリストの出来事を体験する場となるでしょう。このキリストを分かち合う共通の体験が、私たちの交わりの基礎となり、その絆を一層強めるものとなるのです。
 このような震災に遭うと、多くの人々は「神は自分たちを見放した」と感じるかもしれません。「神も仏もあるものか」と嘆く人々もいるでしょう。しかし礼拝を通して、神さまを最も近くに感じることができるのは何よりの喜びであり幸いであります。震災後に迎えた昨年のクリスマスでは、特に訪問聖餐に力を入れました。教会員の中には震災の影響で礼拝に出席できなくなってしまわれた方々もおられます。病床で共に聖餐に与る時に、私たちはキリストの救いを互いに確かめ合い、共に喜び合うことができました。どんなに孤独で寂しさを感じていたとしても、認知症が進み、この聖餐の意味していることがたとえ分からなくても、その存在の全てを受肉されたキリストがご自身の御体の中に受け入れてくださっている。このキリストの命の交わりから決して漏れていないことをそこで共に体験することができたのです。それ以上の慰めがどこにあるでしょうか。聖餐に与ることが教会の牧会の中心だと改めて教えられています。


結びとして
 被災者の魂のケア、これは繰り返し災害が起こるこの国においては後回しにできない喫緊の課題です。しかもこれは臨床心理学では対応できない領域の問題でもあります。教会がその部分を託されていることの責任を痛感しますが、だからこそ、これを人間の業の中に留めてしまうのではなく、すでにキリストにおいて、魂を解き放ち、心を通わせる「共通の体験」としての救いが提供されていることを確信して、このキリストの信託に応えてまいりたい。それが被災地に建てられた教会の使命であると思います。


錦ヶ丘教会 牧師)


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