改革長老教会協議会に期待する

桑原 睦彦





 「論壇」と言うのは、「議論を述べる場所」という意味であり、論客となって、建徳的な意見を堂々と展開することが、求められているのだと思いますが、筆者にはその力がありません。論説?や論評?めいたことも、荷が重過ぎるので、ここに述べるのはせいぜい要望?程度であると思って頂ければ幸いです。従って、当然のことながら、極めて個人的な考えであることもご了解頂きたいと思います。

東海連合長老会と東静岡改革教会協議会のこと
 東海連合長老会(以下、東海)は、本年で設立四五周年を迎えます(一九七二年一月設立)。当時は既に、地域長老会としては東部及び西部連合長老会がつくられており、全国連合長老会の結成が望まれていましたが、そのため東海は、「かなえ(三本足の金属製の器)の三本の足の一つ」(「東海連合長老会設立経過報告」より)として、設立されたのです。
 当時、日本基督教団は、いわゆる「万博問題」を契機に混乱し、教会の生命線と言うべき礼拝、説教、聖礼典、教理(信仰告白)、制度等の軽視が起きました。このままでは、真の教会形成も福音伝道も覚束なくなる、と危惧した牧師達、諸教会が、旧日本基督教会(以下、旧日基)の有志を中心に、連合長老会の結成へと動いたのでした。その後、全国各地域に、地域連合長老会が生まれ、現在は九地域九四教会が加盟しています。
 東静岡改革教会協議会(以下、東静岡)は、一九九七年三月に第一回協議会を開催し、以来四〇回(二〇一七年二月二六日)の集会を重ねて来ました。東海教区東静分区内の旧日基の伝統に連なる諸教会、牧師達がつくる、緩やかな、伝道協力組織を目指しています。歴史的には、前身?と言うべき「静岡改革教会協議会」(一九八六年―一九九六年)が解体し、新しく結成された協議会です。
 筆者が、東海及び東静岡に関わり、責任の一角を担う者として、この頃つくづく思わされるのは、この東海地域に、ささやかであっても、この二つの教会的組織がこれからも、存続せられてゆくことの大切な意味についてです。

今、問われること
 昨年九月に、東京・飯田橋、富士見町教会を会場に開催された第一五回協議会第一日目の主題講演は、「教会を生かすいのちを問う」と題された、加藤常昭教師による熱いご講演でした。そこで語られたのは、協議会運動に対する、期待を込めた厳しい問題提起でありました。その内容を、筆者なりに要約させて頂くと、「今の協議会運動は生ぬるい。当初の情熱を失なっているように感じる。はっきりとした目標がなく、ただ続ける位なら、一旦これを終結させて、運動そのものを根本から見直した方が良いのではないか」という趣旨であったと、思います。加藤先生は、それこそ本協議会運動に当初から深く関わって来られ、指導的な役割を担っておいでになったお一人ですから、その鋭いご批判は、愛に根差した叱咤激励であったと、感謝しつつ、受け止めさせて頂きました。おそらくその後、本協議会での問い掛けに対し、各所で真摯な受け止めが様々な仕方でなされていることと思います。
 勿論、これまで私たちは、決して無為に過ごしてきた訳ではありません。今も、東北や大阪等の地域では、時間をかけ、丁寧に地域長老会結成の努力が続けられていて、本協議会は、その努力が時を得て、実を結ぶよう、これまでと同じくこれからも、出来る限りの支援を続けてゆくことでしょう。また、東日本大震災や、大分・熊本地震のような、大規模災害により被災された教会が出れば、これを具体的に援助する働きや、毎年夏期に行われる青年修養会をこれからも継続開催してゆくなど、協議会に期待される役割はなお多くあると思います。
 ただ、何を為すにせよ、常に最も必要とされるのは、祈りでありましょう。自分たちのためにも、祈らなければなりませんが、今求められているのは、互いのために祈り合うことです。この意味での祈りを欠かしてしまっては、主の御旨に適う教会の形成も福音伝道も絵空事に終わってしまいます。私は先述の加藤講演による問題提起に応答する意味においても、まず、この極めて基本的な祈る?という行為を置き忘れてしまうことは許されないと思っています。

これからのこと
 ただ、無闇に漠然と、祈るべきだと、掛け声だけ挙げるだけでは、何を、どう祈れば良いのかも、はっきり致しません。殊に互いのために祈るとなれば、可能な限り具体的に、その願いや課題が明らかにされなければなりません。そのためには、自分たちの困った状況を、信頼をもって臆せず伝え、披瀝し合える霊的環境が必須です。本当に祈って欲しいこと、ここに祈りの応援を求めたい事柄と言うのは、しばしばいわゆる守秘義務?を伴うものでもありますから、万が一、他に不用意な仕方で漏れては困る情報は、うかつには開示できません。しかし、教会に託されている祈りは、本来、その様な問題・課題の深部にまで関わる魂の祈りであるはずです。決して表層的に終始せず、深い祈りが継続的に、又粘り強く祈り続けられてゆくことこそが、最も望ましいのだと思います。
過日、新大阪で行われた、全国連合長老会教師会の最後に、祈る時間が与えられました。その前に各地域連合長老会の成り立ちの歴史や、現状の課題などが報告され、その報告を受ける形で、発表者達が代表し、他の地域のために祈り合いました。これまでには無かった恵まれた時を与えられ、新鮮な思いに満たされつつ、帰途につくことが出来ました。
 「祈っていますよ」と声を掛けられただけでも、励まされますが、実際に、今、自分たちのために祈られるという経験は、まことに得がたく、正直言って、地域長老会としては、初めての経験でありました。
 私は、協議会でも、同じようなことをしようと考えても、中々難しい問題も出て来るかも知れないと案じながらも(既に始めておられる地域もおありかと思いますが)、出来るなら、今後の協議会の諸集会の中でも、静まって、互いのために祈り合うひと時が持てないものかと、思います。全国規模では困難であっても、少なくとも各地域の協議会等では是非試みて頂けないかと、思っています。

協議会への期待
 私たちは、日本基督教団(以下、教団)に在って、協議会運動を展開して参ります。その意味で、連合長老会も協議会とは同心円の関係にあるのだと、先輩の牧師方からも教えられて来ました。そうであれば、協議会運動も連合長老会形成も、互いに矛盾することなく、どちらも教団が、真の教会形成に近づくことを願いとし、そのために仕えることを厭いません。それは、多くの牧師、長老、信徒方の教団、教区等への奉仕の姿にも見られるものです。
 しかし、同時に、協議会と連合長老会は、より一層連携を強めながら、各地域及び各個教会の伝道力の強化のためにも、さらなる役割が期待されると思います。
その場合、何よりもまず大切なのは、教会の生命線である、信仰告白、み言の説教、聖礼典(つまり礼拝)の健全性を保ち、強める為の、教会建徳的な諸集会を、今後も継続、開催し続けてゆくことです。この大切さは、全国レベルでも然り、地域においても勿論忘れられてはなりません。
 しかし、それと共に、さらに力が込められるべき事柄は、牧師の人事(牧師招聘)です。様々な事情によって牧師が交替せざるを得なくなる時に、各個教会の長老会は、何を頼りに後任の牧師を求めてゆくのか。その時に協議会は、最もその信仰が試されるのだと受けとめなければなりません。
人事?である限り、牧師の人事についても、様々な願いや思惑が介在せざるを得ませんが、そうした人間的思いだけが先んじるのではなく、まさにその処でこそ、「しかし私の願い通りではなく、御心のままに。」(マタイ二六・39)との祈りが、ささげられなければなりません。その上で、牧師人事を任された者たちは箇教会の事情や実情をよく考慮に入れながら、教会の生命線がしっかり保たれ、又、強められるよう配慮する必要があり、牧師を招聘する箇教会も、長老会を中心に、祈りつつ、教会の首なるキリストのみ旨に委ね、決断することが求められるのです。
 目下、伝道は急務であり、全力を尽くして取り組まねばならぬ緊急の課題でありますが、教会の伝道は、教会自身の生命力即ち信仰告白や説教、聖礼典等の健全性が保たれてこそ、祝福されるわざになると信じます。その努力が中々実らないことに苛立ち、大切な教会の基本まで崩してしまうことの無いように努めなければなりません、ただ、個教会の健闘だけでは限界があります。教会の生命線が保たれ、伝道力が強化されるためにも、協議会の働きは益々重要になってくると思います。
個々人でも祈り、箇教会でも祈られていると思いますが、協議会の共同体においても、より一層、祈りの共有が為されて欲しい、祈る協議会?が目指されて欲しい、それが今一番の願いであり、望みです。


富士教会 牧師)


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