伝道するキリストの体

清藤  淳





 自分の体を知るのは、たとえば鏡に映った自分の姿を見たとき。体重計に乗ってみてもわかることがある。血圧計に腕を通して見るとどうだろう。自分の手であちこち触れてみるのもいいかも知れない。いつもと変わらない体、たぷついたお腹とか、やせてこけてしまった頬とか、血行がいいとか、肌の衰えを感じるとか。体の調子の良し悪しを人は意識するともせず確認しながら日々を過ごしている。自分の体をだれかと交換するわけにはいかない。体調がすぐれなくても、自分の体とつきあっていかなければならないのがわたしたちの体である。そして教会も同じだ。イエス様はわたしたちの教会をご自分の体として受け取ってくださった。患ってるところがあったとしても、その体をイエス様は脱ぎ捨てたり、他と取り替えてしまおうとはなさらない。ご自分の体として、イエス様が愛してくださる。その体に残る傷跡も、弱さも、十字架の傷跡の残るその御手で、愛おしいものとしてさすってくださる。それが教会である。
 わたしたちである。 わたしたちにとって大切なのは、キリストの体なる教会の、その身体性をどこまで受け止めているかということでる。世界がすべて教会だと言い切る体理解もある。あるいは目の前にある一緒の礼拝堂に集まっているのが教会だという体もある。本誌「季刊教会」の読者は、自分の出席している個教会だけをキリストの体と受け止めている人は少ないだろう。実際にはそう見えないときにも、知っているはずである。地域にあって、信仰と制度を共にする教会の群をも教会の体として思いを広げることができることを。自分の教会と言ったとき、その教会の範囲はその地域にあって共に教会形成を一つとしていこうとする群まで念頭に置きつつ語って良いのだと言うことを。キリストの体の身体性をわたしたちは、個教会のみならず、地域の共同体として理解している。地域を念頭に置くことのできる健やかさが教会形成の鍵である。このことの重要性を和歌山の地域の現状と併せて一考したい。

 昨年秋に開かれた第四〇回日本基督教団総会において、財政危機を迎える二〇二〇年問題、そして教勢低下で組織維持できなくなる二〇三〇年問題が強調された。このことは石橋秀雄教団総会議長による「二〇一七年度教区総会への挨拶」でも繰り返されている。教団の財政破綻、教会消滅の危機。いずれも先送りすることのできない喫緊の問題であるのに違いない。危機的状況の確認は、自分たちの体の弱さや衰えを知らされる一つの側面である。そこで危惧されるのは、危機的状況だから伝道しなければならない、という言説である。この発想は多くの人々の心に湧き上がってくるようだ。多くの教会の会議の場でも耳にしてきた。しかしこれは悪魔のささやき以外の何ものでもない。
 それはなぜか。他者を喪失しているからである。弱り衰えた自分しか見えなくなっているからである。教会がイエス様の体であるとはどういうことか。創世記の創造物語は伝えている。「ついにこれこそ骨の骨、肉の肉」と他者との関わりのなかに愛することを知り、喜びを覚え、慰めを見いだすことではないか。そのような喜びに生きるために、主の教会は体であることを信じてきた。他者に喜びを求め、喜びに与る主の体としての教会が、自分のことしか考えられなくなるはずがないのである。
 自分たちの体を支え、守るために伝道しようというのは、もっともらしく聞こえる。「教会のために」という言葉は美しい。信仰的であるように思える。しかし忘れてはならないのはいつだって悪魔は麗しい言葉と、人の目に好ましいものを提示することでわたしたちを誘惑するのである。わたしたちの教会のために、信仰のために、伝道のためにというところでこそ、神さまの御心を遠ざける思いをいかにも信仰的に語ってくるのである。
 イエス様が先だって歩まれ、その歩みを信じた者たちのもとに教会は教会とされてきた。そのイエス様の出来事として、キリストの体とされてきた教会。ならば教会は隣人を愛し、福音を宣べ伝えるところでしか教会として立っていかない。教会の信者を「儲」という自分たちの手段のようにしか見えない教会は二〇二〇年問題、二〇三〇年問題以前に滅びを迎えていることを自覚していい。さらに言えば、そもそも危機的状況から伝道しようなどというところに人は寄りつかない。世の中で十分使い倒された心地しているのに、教会でもまた同じような要求がなされるのかと感じてしまうから。魂の飢え渇きを覚えてきた人が、教会でも世の中と変わらないとがっかりして去っていくのは目に見えている。イエス様が隣人を自分のように愛しなさいとおっしゃったとき、隣人を自分のものとして取り込めとおっしゃったわけではない。神さまがわたしたちのために御子を差し出してくださったように、わたしたちも自らを差し出す者となれということである。キリストの体であるのなら、他者のために、隣人のために自分を差し出すのである。仮に自分たちのためにという心が微塵でもあるのなら「伝道」の喜びは失われ、組織維持、組織拡張、そして自己愛という言葉に置き換えられる。そこに教会の体温はどれほど感じられるだろう。熱い息づかいはあるだろうか。

 このような誘惑にかられるのも、教会の身体性が見えなくなることに一因がある。念頭に置くのは、各個教会でしかキリストの体であることが受け止められない、その小ささに起因するのである。
 日本基督教団大阪教区にある和歌山には一三の教会・伝道所がある。そのうちの八教会二伝道所によって、信仰と制度を共にする地域共同体である和歌山連合長老会は組織されている。二〇一七年五月には第二九回の地域長老会会議を行った。まもなく三〇年の歩みを数えるところとなる。この地域の特徴は、一八八一年に来和したJBヘール宣教師にルーツを持つことである。和歌山連合長老会のすべての教会がヘール宣教師の伝道によるわけではないが、戦後の伝道のなかで立てられた教会もヘール宣教師の伝道の姿勢、スピリッツを継承したいという祈りのなかで教会の歩みが始められている。
 昨年の和歌山連合長老会長老研修会で、ヘール宣教師の宣教論を振り返るときをもった。そこで確認されたのは、当たり前であるが伝道初期には教会などなかったということである。この当たり前の事実を前にして、現代の危機感の感じ方は何と矮小なことだろう。海を渡り日本伝道のために生涯をささげたヘール宣教師は広域な紀伊半島の各地にイエス様を主と仰ぐ群を生み出していく。数人の集会をそこかしこにつくる。やがてそのうちのいくつかから長老と執事を選出していく。それもわずかに一名とか二名である。事実上、各群の代表ということになり、その代表者の集まりが長老会(中会)であったのは言うまでもない。ヘール宣教師は、各個教会で長老会を組織することに重点を置くよりも、紀州全体で一つの教会を形作ろうとしていたことがうかがえる。各教会の規模は小さくとも、全体で一つの伝道になるような宣教のビジョンを持っていたことがこの長老研修会で確認された。
 このようなヘール宣教師の宣教論は、旧日本基督教会時代には保たれていたが、一九四一年に日本基督教団に改組されるに当たり消失していく。伝道は各教会のそれぞれの伝道者たち、あるいは長老たちに任されることとなる。このことは、キリストの体の身体性の実際的な理解を小さくしてしまうことになった。ヘール宣教師が紀州全体としてキリストの体が形作られていくという大きさが、各個教会の伝道のフィールドに限られてしまうことになる。その後、約三〇年前に和歌山連合長老会が組織されることとなる。しかしヘール宣教師の伝道の幻を継承したということではない。日本基督教団大阪教区和歌山地区としてのお交わりはなかなか越えられない。理念的な教会論は学びつつも、実際に一つの体として体を動かすような交わりにまではなっていなかった。
 このような和歌山の状況は、次のように言わねばならない。教団の二〇二〇年問題、二〇三〇年問題というのはこれから起こり得ることではなく、和歌山ではすでに起こっている。財政破綻も組織維持不可能な状況も、数字の上でははっきりしてる。五年先、いや三年先を思い描くことさえできないと言われるような状況がある。その弱さを、衰退した状況を改めて認識させられたのが二〇一七年春、牧師交代を通してであった。しかし和歌山連合長老会は二〇一七年五月の地域会議で集中伝道決議をした。これは和歌山連合長老会として改めて伝道するということである。具体的には個教会を覚え、数年にわたり伝道活動を支援していくこととを計画している。しかしこれは困難を覚える当該教会のためにということではない。和歌山連合長老会の伝道として位置づけ、そのために祈りと労力と宝とを献げることを決議したのである。和歌山連合長老会として伝道する、言い直すとこの地域共同体として改めてキリストの体を見るものとされたということである。
 転んで足をひねれば痛い。病気で熱にうなされれば苦しい。それは平時よりずっと体を意識させられる。痛みや、苦しみは体を体として認識させるのである。それはどうやらキリストの体である教会でも同様である。教会群を形成する交わりにあって、痛みが痛みとしてわかるときに、共に祈り始める。地域共同体というキリストの体とされている教会群の輪郭がはっきりとする。それは経済的、人的困窮によるによってということではない。むしろ信仰の乏しさを思い知らされたことによるのである。このわたしたちの教会をなお神さまが憐れんでくださり、イエス様の体として見ることを赦してくださる。また苦しみを覚えるからこそ、改めてわたしたちは主の体として、主の教会として伝道したい。この祈りを新たにされることに体の形が見えてくる。それは和歌山にある者たちの祈りゆえにではない。イエス様がそのように望んでおられることを知らされるからである。


和歌山教会 牧師)


Homeに戻る