「宗教改革五百周年」を覚えて

北畠 友武





 はじめに〜宗教改革五百周年記念行事を感謝して〜

 マルチン・ルターが「九五箇条の提題」を公にしてから五百年を数える二〇一七年、国内でも宗教改革五百周年が祝われました。日本基督教団では、「宗教改革」を日本基督教団の信仰の土台を形づくった出来事として捉え、宗教改革五百周年を記念する二〇一七年を「福音伝道を推進する契機の年」として記念事業が行なわれました。特に、教団創立記念日にあたる二〇一七年六月二四日には、東京の富士見町教会で、宗教改革五百周年を記念する礼拝が五百名を超える出席者によって守られました。また、青年を対象とした三つの記念事業が計画、実施されています。教団出版局からは関連書籍が多数出版されています。日本聖書協会では、「宗教改革記念ウィーク」(九月十二日?十八日)が「宗教改革が問いかけるもの」との主題で教派・教会を超えて守られました。東京神学大学では、日本伝道協議会が宗教改革を主題に守られました。更には、各教派・教会グループでも各種行事が守られています。改革長老教会協議会牧師会(二〇一七年九月十八日?十九日・横浜指路教会)と公開講演会もその一つです。こうした行事は、プロテスタント・キリスト教会として自己認識を新たにして、教会形成、伝道推進、組織間の協力・連携の契機としようとするものがほとんどでしょう。意欲的な取り組みが今後も実を結び続けることを祈ります。
 それでは、私たち日本のプロテスタント教会に属する者にとって「宗教改革」は自明の事柄かと問えば、必ずしもそうではない様に思います。自国、あるいは自民族の宗教改革の歴史を持つ人々は、宗教改革を身近に覚えることが比較的容易かも知れません。宗教改革に用いられた信仰者の献身の歴史とその旧跡が近くにあります。私たち日本の教会はどうかと云えば、ほとんどの教会員においては曖昧な知識に留まっているのではないでしょうか。私たち日本基督教団の教会は「宗教改革五百周年」を祝う歴史と内実を持っていると言い得るのか、という疑問が生じます。この疑問の周辺について若干の論考を記します。

地方から「宗教改革五百周年」を考える

 宗教改革五百周年を記念する諸行事の案内や報告を読む度に、遣わされている地方教会との温度差を感じました。幾つかの理由が挙げられるでしょう。今回の諸行事だけでなく、首都圏で行われる行事は、地方の教職や信徒にとって、日程的にも経済的にも出席に困難を覚えるものであり、最初から関わりの薄い出来事と感じる傾向があります。全体教会を覚えるよりも、自分たちのことで精一杯という気持ちもあるのでしょう。青少年を対象とした記念行事に青年、中高生を派遣出来る教会は多くありません。「信仰告白に立つ教会」、「サクラメントの確立」、「伝道」等の用語自体にアレルギー反応が起こるような教区総会のもたれる教区においては、尚更、信徒も遠い出来事に感じるでしょう。
 もちろん、温度差を意識してしまうからこそ、私たちの教会も「日本基督教団宗教改革記念献金」に献金を送り、夫々の事業を覚えて祈りました。九州においても各教派・教会グループが、既存の行事等に「宗教改革五百周年記念」の主題を掲げて取組んでいます。
 けれども、そうした距離や経済的事情、教会政治的環境だけが、「宗教改革五百周年」への意識を希薄にして記念することを難しくしているのではないと考えます。日本のプロテスタント教会だけでなく、非西欧圏のプロテスタント教会は、宗教改革によって成立した教会としての自己認識を高める意義を感じる機会が少ないのではないでしょうか。伝道地にあって、各個教会や全体教会の歴史の浅さがその背景にあるのではないでしょうか。入門を繰り返さなければならない現実があります。キリスト教人口の少ない国や地域においてはカトリック教会との協力も欠かせません。
 日本基督教団は二〇〇九年に「日本伝道一五〇年」を祝いました。それ以前にも、一九〇九年に「開教五十年記念」が東京基督教青年会館を会場として行われています。また、一九五九年にも「宣教百年記念」伝道と大会が、日本基督教協議会や日本基督教団の主催で行われています。それらの行事は、プロテスタント教会の歩みを感謝して確認し、福音宣教の想いを強め、内外にアピールするために用いられました。神様の恵みと導きを受けた先人達の歩みがあって今日があることを覚えます。所謂「バンド」や植村正久、新島襄等の同国人の著名な先達の名をあげれば、日本における教会の歩みも近しく覚えることが出来た時代もありました。日本のプロテスタント教会の歴史を振り返るとき、戦中・戦後のあり方が問われることから、歴史を振り返ることが弱くなってしまうこともあるのでしょうか。より長いスパンで教会の歴史を見ることが、教会の歴史と全体教会を覚える意識を発展させる糸口になるかも知れないと考えます。

日本において「宗教改革」を考える

 ルター研究者である倉松功先生の著書から「宗教改革」の定義を求めました。「プロテスタントがローマ・カトリック教会と共に宗教として認められるようになった運動の発端から、それが一定の領域で唯一の宗教として認められ定着するまでの現象・時代を「宗教改革」と言う」との理解です。この理解には、歴史的、政治的、社会的「領域」としての「領邦」や「都市」、「州国家」やその連合体・統合体としての国家とその構成員がある程度前提とされています。そうした「領域」への宗教改革の「公認」、「導入」、「採用」と結びついて、宗教改革の延長としての教派教会の設立と継続があるのでしょう。社会に根付いた宗教改革の教会とそこで育まれた人々が、近代から現代にいたる市民生活や思想に影響を及ぼしていき、宗教改革の出来事が、それぞれの属する共同体に関わる出来事として覚えられ得る経験となりました。
 歴史的変化を遂げる日本という領域において「宗教改革」に類することが起こったとすればいつのことのでしょうか。仏教伝来(五三八年)から仏法興隆の詔(五九四年)を経て広まる、律令国家建設期のことでしょうか。平安末期から鎌倉中期に興った鎌倉仏教の全階層への浸透とそれを可能とさせる仏教の教えと実践の変化でしょうか。明治における神仏分離令(一八六八年)と大教宣布の詔(一八七〇年)を端緒として推し進められた国家神道の創設でしょうか。戦後の神道指令(一九四五年)による国家神道の解体、天皇の人間宣言(一九四六年)による天皇の神格否定から、日本国憲法施行(一九四七年)による「基本的人権」(十一条)と「信教の自由」(二〇条)の保障へと繋がる変化でしょうか。これらの中でも特に鎌倉仏教の救済の徹底は、全階層に浸透した、仏教内の変化であり、「宗教改革」的なるものとして大きな出来事でした。
 それでは、国家的社会的変革としてキリスト教が「公認」、「導入」、「採用」されたと云えるような出来事が日本にあったのかと問うならば、無かったと答えるしかないでしょう。十六世紀半ばのキリスト教伝来からキリシタン禁教体制が完成するまでの時期、大村純忠の肥前、大友義鎮の豊後、高山右近の高槻・明石など、キリシタン大名の治めた期間の領国内において、限定的ながら比較的大きな変革が起きたと見ることも出来ます。全階層に信仰が浸透したかどうかは判断が難しくとも、カトリック教会によるキリスト教布教の成功例であることは確かです。その後、江戸時代のキリスト教禁教の間、キリシタンは潜伏して耐えることとなります。殉教した人々、過酷な弾圧に耐えた潜伏キリシタンに敬服するほかありません。潜伏キリシタンの忍耐は、明治維新後にカトリックの復活として奇跡的に実を結びます。けれども、切支丹禁制高札廃止(一八七三年)は浦上信徒弾圧事件で西洋列国の抗議に耐えかねた明治政府の布教黙認であったことも事実です。こうした歴史と経験は、望んで得たものでないにしても、カトリック教会の信仰の遺産となっています。カトリックの信徒は、キリシタン大名とその家族、家臣、殉教した聖人や福者を覚えることを通して、自らの歴史としてこの時代の出来事を意義深く受け止め、現代に生きる自分たちの信仰を捉え直す道が開かれています。

九州から「宗教改革」を考える

 カトリック教会は、二〇一五年に「日本の信徒発見 百五十年」を記念して長崎で祝いました。九州にはキリシタンに関わる旧跡・資料が多く残されています。あらためて振り返ると、二〇一七年は一五四九年のフランシスコ・ザヴィエルによる鹿児島へのキリスト教伝来から四六八年、一五八七年に関白豊臣秀吉が九州平定からの帰路に小倉で伴天連追放令を発令してから四三〇年、一六一二年に徳川家康が「禁教令」を九州の有馬領を含む四カ所に発令してから四〇五年、全国に拡大してから四〇三年です。殉教の戦いとは定義されませんが島原の乱が起きてから三八〇年です。実に、日本におけるキリスト教史の特筆すべき出来事の多くは、カトリック宣教と潜伏キリシタンの歩みに関っています。スペイン・ポルトガルの世界進出と重なっているとはいえ、イエズス会を含むカトリック教会の世界規模の宣教と戦乱にあえぐ戦国時代の人々の宗教的求めが結び合ったことは間違いありません。すると、日本のキリスト教史の黎明期は「対抗宗教改革」の働きに多くを負っていると言えるのではないでしょうか。ザビエルが日本に来たのはトリエント公会議(一五四五?一五六三年)開幕中です。逆説的ですが、対抗宗教改革を引き出した力として宗教改革を覚えます。
 二〇一五年の「日本の信徒発見 百五十年」に先立つ準備のため、高見三明長崎大司教は述べています。「信徒発見の出来事は、日本の教会の成り立ちと継承されてきた信仰の正統性、その使命が刻まれています。この出来事を体験した潜伏キリシタンは、日本の教会の一員でした。従って信徒発見という神の不思議なみわざは、長崎の出来事ではなく、ザビエルから始まって成長と殉教と潜伏の歴史を通して信仰を育み伝えてきた日本の教会の『信仰の原体験』なのです。」(長崎教区「カトリック教報」二〇一四年一月一日号)。九州にあって潜伏キリシタン共同体の減少やカトリックの抱える課題を知る者として、手放しでカトリック讃美をすることは出来ません。しかしながら、ここには首肯せざるを得ない内容も含まれているように思います。高見三明長崎大司教のいう「日本の教会」に私たちは含まれているのだろうかと考えます。  私たち日本プロテスタント教会は、切支丹禁制高礼廃止前後から始まるプロテスタント伝道の苦闘と成長の歴史を、「日本伝道一五〇年」を記念する際に覚えました。二〇一七年現在で、プロテスタント伝道一五八年、キリスト教(カトリック)伝来四六八年、宗教改革五百周年、キリスト降誕二千年余です。それらを個別に覚えるのではなく一つの流れとして受けとめる感覚が持てないものかと考えます。教会が福音を担って地上を歩むときに現れる歴史を意識することは、私たちの信仰の養いになり、各個教会から全体教会へと意識を広げてゆく助けにもなるのではないでしょうか。
 日本基督教団の中にある教会も、神の救済のご計画によって誕生した歴史的教会の一部として、初代教会以来の教会の歩み、特に宗教改革の教会の歩み、日本へのキリスト教伝来以後の歩み、そしてプロテスタント伝道開始以後の歩みを受け止めて、教会形成と信仰の養いに活かしてゆく道を開いて行けたら幸いであると考えます。

《参考文献》
『信徒の友』(二〇一七年八月号)
 「宗教改革五〇〇周年を記念して」(岡村恒)
(日本キリスト教団出版局 二〇一七年)
『キリストこそ我が救い 日本伝道一五〇年の歩み』
 (日本基督教団日本伝道一五〇年記念行事準備委員会編
日本キリスト教団出版局 二〇〇九年)
『宗教改革と現代信仰』
(倉松功著 日本キリスト教団出版局 二〇一七年)
『日本キリシタン殉教史』(片岡弥吉著、時事通信社、一九七九年)
『ペトロ・岐部と一八七殉教者 歴史・巡礼ガイド』
(ドン・ボスコ社、二〇〇八年)
『日本の信徒発見百五十年 祈り 先達の信仰を受け継ぐ』
(女子パウロ会、二〇一五年)


(門司教会 牧師)


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