福音を告げる言語
〜伝道者としての自らの言葉を省みて〜

小堀 康彦



一 夏期伝生を迎えて
 毎年、夏期伝道の神学生を迎えています。夏期伝道の神学生には主の日の礼拝の説教をしていただきます。その際に、三つの点に留意することを求めます。これ以外のことは、何も言いません。
@聖書が語っていることですか?
 これは、きちんと聖書に聞こうとしているかどうかということです。釈義も必要でしょう。でも、それ以上に必要なことは聖書に聞こうとする姿勢です。そして、聖書の言葉が神の言葉として自分の中で響き渡るということです。
A自分の言葉で語っていますか?
 これは、聖書から聞いた言葉を自分の言葉として語るということです。分かったようなことを語るのではなくて、本当に分かったことだけを語る。自分がこれによって今生かされている、それを語るということです。
B自分はどこに居ますか?
 これは、テレビや映画を見るように聖書の出来事を傍観者のように見ない、語らないということです。聖書に告げられている福音は自分に向けられた、自分を生かす言葉だからです。聖書の中に自分が居るからです。
 この三点は、北陸連合長老会の牧師会における説教演習において私自身が問われることでもあります。このことは、別の言い方をしますと「証言者として語る」ということにもなるでしょう。

二 証言者として立つ
 聖書は主イエス・キリストが誰であるかを語ります。その際の言語は、証言としての言語です。これは聖書のとても大切な面ではないかと思います。イエス様が誰であるかということを、説明しているのではないのです。復活のイエス様に出会った弟子達は、復活とは何なのかと説明しているわけではありません。イエス様の十字架にしても同じです。何が起きたのかを証言しているのです。パウロ書簡にしても同じです。イエス様の救いに与り、異邦人への伝道者として立てられたパウロが、その具体的な伝道者としての歩みの中で示された救いの出来事、自分の身の上に起きたことを証言しているのです。
 そうであるならば、福音を告げるということは、聖書の言葉を語り直すということである以上、「証言」として語る以外にないのではないかと思わされるのです。当たり前と言えば、当たり前のことです。しかし、私はこのことが随分長く良く分かりませんでした。それは、私の中に「正しく語ろう。正しいことを語ろう。」という思いが強くあったからです。勿論、告げられる福音は正しくなければなりません。しかし、正しいとはどういうことなのでしょうか。教理的に間違っていない。その筋道が明確である。それも大切でしょう。私も、その為に神学的研鑽に励んで来ました。しかし、正しいことを、正しく語っていこうとする時、それはいつの間にか説明の言葉になってはいないかという反省があります。そして、説明の言葉はつまらないのです。心に届かないのです。熱がないからです。説明の言葉には、福音の持つ力が宿りにくいように思えます。勿論、教理的に正しくなくても良いはずがありません。しかし「正しいことを、正しく語ろう」とする時、私共は自分を守ろうとしていないか? ただの罪人に過ぎない自分を、正しい者として見せようとしていないか? 神様の御前に立っているのか? ということです。
 誤解して欲しくないのですが、教理など要らないと言っているのではないのです。教理の正しい筋道は大前提です。説明だって必要です。「神」「救い」「愛」…という言葉を使うにしても、通常日本人が使っている意味とは大きく違っているのですから。しかし、聖書を説明し、正しい教理の筋道を語るだけでよいのかということです。私共の考える正しさの中に神様は納まるのか?ということです。

三 召命を受けて献身した者の言葉
 夏期伝道の神学生にとって、AとBが難しいようです。そこで、夏期伝道の神学生にはいつも「あなたは召されたの?」と聞きます。召された者のならば、AとBが分かるはずなのです。でも「ハイ。牧師になろうと思いました。」と答えられると、私は困惑してしまいます。それで「あなたの気持ちを聞いているのではないのです。神様があなたを召されましたか? と尋ねているのです。」と更に問います。すると、今度は相手が困惑します。
 「神様が伝道者として私を召した」ということと、「私が牧師になりたいと思う」ということとは、繋がってはいるのでしょうが全く別の事柄です。この区別は厳密になされなければなりません。神様の召しとは、具体的な出来事です。イザヤもエレミヤもペトロもヨハネもパウロも、自分がなりたくて預言者や使徒になったわけではありません。神様に召されたからです。この召命の出来事を欠いた「私の気持ち」などというものは、大いに勘違いであるかもしれません。そして、勘違いをしている人には、いつまでも証言として語るということが分かりません。私が救われた、私が召されたということが、証言の原点になるからです。

四 神様の出来事の中で
 数年前、AとBのことで悩んだ夏期伝道の神学生が、説教の冒頭で「私は注意欠陥障碍者です。」とカミングアウトして、説教を始めました。私はビックリしました。「自分の言葉で語りなさい。証言者として説教壇に立ちなさい。」と言い、何度か説教を書き直してはいただきました。しかし、自分の体験を語れと言ったわけではありません。注意欠陥障碍という、中々人に理解してもらえない、それ故なるべく隠しておきたいことを講壇で語ることを私は求めたわけではありません。しかし、この日の礼拝に一人の新来会者がいました。長い間、息子が注意欠陥障碍であることに苦しんで、初めて教会に救いを求めて来られた人でした。この日以来、この方は忠実に主の日の礼拝を守られ、洗礼を受け、今も忠実な教会員として礼拝と祈祷会に出席されています。
 この夏期伝道の神学生には、不安がありました。注意欠陥障碍を持っていて、自分は牧師としてやっていけるのかという不安でした。この神学生に「大丈夫。私はあなたを選んだ。注意欠陥障碍を持っていようと、あなたは伝道者として立っていける。私が遣わすのだから。」という御心を、神様はこの出来事をもって示してくださったのです。この出来事は、神様が自分を伝道者として召されたことの確かな「しるし」として、生涯この伝道者を支え続けることでしょう。

五 今、生きて働かれる神様を伝える
 イエス様は復活され、天に昇られました。そして、私共に聖霊を注がれます。聖霊は出来事を起こし、私共に信仰を与えてくださいます。聖霊なる神様がそこに臨んでくださり、働いてくださらなければ福音は伝わりません。それは確かなことです。私共は、その今、生きて働いてくださっている神様を証言し、伝えるのでしょう。
 円を描こうとした場合、通常はコンパスを用います。綺麗な円が描けます。これを座標上でr2=x2+y2と表すことも出来ます。しかし、これとは全く違う描き方があります。それは、沢山の接線を引くことによって円を浮かび上がらせるというあり方です。これは直接、円を描くのではありません。円とは接点という一点だけで繋がっています。そして、一本の接線では全く役に立ちません。しかし、その接線の数が多くなればなるほど、円の姿はくっきりと立ち現れてきます。この一つの接線が、一つの証言です。キリストの教会は、長きにわたる歴史の中で、多く証人によって無数の証言を与えられていますし、現に与えられ続けています。受洗者が与えられるということは、一つの証言・証人が与えられたということでしょう。神様の救いの御業が為され続けているキリストの体である教会は、生きて働かれる神様の御業で満ちている場です。そこで語られる多くの証言によって、今生きて働いておられる神様の姿が浮かび上がり、神様は出来事をもって自らの御臨在を示されるのでしょう。

六 肯定的、熱をもった言葉によって
 証言としての言葉は、罪人を愛し、赦し、用い給う神様の御業を具体的に、わが身に重ねて語るわけですから、必然的にその言葉は肯定的表現となります。そして、その言葉には熱があります。一方、説明の言葉は「〇〇ではなく」といった否定的表現がどうしても多くなるように思えます。勿論、どちらも必要なのです。しかし、説明の言葉は知らない者に対して「教える」という言葉になりがちです。この「教える」言葉、態度が、福音を伝えるのに相応しいかということです。それは、神様の愛を伝えるあり方として、それが相応しいかどうかということでもあるでしょう。
 伝道者として遣わされて三一年。改めて、自らの伝道者としての言葉とあり方を福音に相応しく変えていていただきたいと激しく請い願っています。


日本基督教団富山鹿島町教会 牧師)


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