宗教改革を受け継ぐ

藤掛 順一



 ルターによる宗教改革の開始から五百一年目となりました。「宗教改革五百年」をその年だけの単なるイベントとしてしまってはなりません。宗教改革において教会が回復した信仰の真理と、その真理に基づいて教会を改革しようとする意志を受け継ぎ、本誌のタイトルでもある「御言葉によってたえず改革される」教会として歩みたいと思います。最近は、カトリックとプロテスタントの「和解」のムードの中で、宗教改革を「エキュメニカル」に捉えることが流行っています。勿論教派間の対話や協力は大切ですが、私たちは宗教改革において確認され、打ち立てられたプロテスタントとしてのアイデンティティーをしっかり確認し、それに基づく教会の改革、形成に励まなければなりません。それがあってこそ、エキュメニカルな対話も可能となります。いわゆる「宗教改革の三大原理」が、今日の私たちの教会形成において持つ意味と、それを受け継ぐための課題を考えたいと思います。

@信仰のみによる義認

 罪人がイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされ救われるという「信仰義認」が宗教改革の「内容原理」ですが、「信仰のみによって」が、「信仰という自分の良い行い、功績によって」というふうに間違って受け止められてしまっていないでしょうか。クリスチャンとは品行方正で立派な人、というイメージを払拭することが伝道の一つの鍵ですが、そのイメージに私たち自身が捉えられていないでしょうか。愛に生きている立派な人がクリスチャン、という図式をクリスチャン自身が持っていて、そこから「自分はクリスチャンとして失格だ」などという自己卑下の言葉が語られます。罪を犯さず、愛のある立派な人になることが信仰であり、その信仰によって義とされ、救われる、というふうに「信仰義認」を捉えており、「クリスチャンはこうであるべきなのだが自分はそうなれていなくて申し訳ない」などと言っていて伝道などできるわけはありません。「自分ができもしないことを人に勧めるな」というものです。
 逆に、洗礼を受けて信仰者になったことによって、自分が何か世間の人よりも立派な、優れた人になったかのような錯覚に陥っている場合もあります。信仰を持っていない人を「ダメな人」として見てしまうのです。世の中の多くの人々が、クリスチャンは自分たちのことを「上から目線」で見ていると感じています。信仰を自分の手柄、功績のように思っているクリスチャンの優越感が伝道の妨げとなっているのではないでしょうか。
 これらはいずれも「信仰義認」の誤解ですが、その責任は教会にあります。「聖化」を重んじる教会において、「信仰者はこうあるべきだ」と厳しく教えられ、それを実行できないと裁かれ、批判され、その苦しみから福音による慰めと喜びを求めて転会して来る人がいます。いわゆる「福音派」の中にはそのような律法主義に陥っている教会があるようです。日本基督教団においては、社会問題に関わる信仰の「実践、行為」が強調されることの中で、キリストの十字架による罪の赦しの福音が見失われているところがあります。いずれにおいても、人間が何かの活動をすることが信仰だという誤解を、教会自身が語り広めているのです。
 人間の「ありのまま」を肯定することが「信仰義認」だという誤解も今蔓延しています。ルターの「九十五箇条の提題」は、真実な「悔い改め」の回復を訴えるものでした。「ありのまま」の私たちは救われようのない罪人なのです。悔い改めは、罪を反省して自分の力でマトモな人間になることではありません。そんなことでは解決しない深い罪が自分にあることを認め、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しをこそ求めていくことが悔い改めです。その救いにあずかった者は、「ありのまま」の罪ある生き方から、キリストによる救いに感謝し、それに応えて生きる者へと新しくされるのです。悔い改めと感謝の生活へと結びつかない「ありのままの肯定」は「信仰義認」とは全く無縁なものです。
 一生懸命良いことをして生きようとすることが信仰であり、それによって救われると教えるのが宗教だ、という常識が世間にはあります。キリスト教の教えもそうだと多くの人が思っています。「良い行いによってではなく、ただ神の恵みのみによって救われる」という教えは世間の感覚からしたら非常識です。つまり私たちに求められているのは人間の常識的感覚との戦いなのです。そのことをしっかり意識していないと、人間の常識はすぐに私たちを捕え、支配します。私たちの良い行いがいかなる意味でも救いの根拠とはならず、人間の功績とはならないことを明確にしながら、同時に「感謝の生活としての良い業」を大切にしていくことは、とても難しい綱渡りのようなことです。このバランスをしっかり取ることが「信仰義認」を受け継ぐ私たちの課題なのです。

A聖書のみ

 宗教改革者たちが「聖書のみ」を主張したのは、カトリック教会が「聖書と伝承」を信仰の規範としていたことへの批判ですが、その根拠は、人間の言葉ではなく神の言葉に聞き従うところにこそ救いがある、ということです。人間の言葉である「伝承」を聖書と並ぶ規範としてしまうと、結局人間の言葉が神の言葉を閉め出して支配するようになるのです。今日の教会を脅かしている人間の言葉の代表は「ヒューマニズム(人間中心主義)」です。ヒューマニズムを規範として聖書が読まれると、「ありのままの肯定」が「福音」と混同されるのです。 
「聖書のみ」をプロテスタント教会の原理として真に確立したはカルヴァンです。彼こそが、ルターが強調した「信仰義認」を旧新約聖書全体に語られている神の主権的恵みによる救済の歴史の中にしっかりと位置づけました。「信仰義認」は、聖書の重要な内容ですが、その全てではありません。聖書をその全体として語ることが「聖書のみ」の信仰に生きる教会の課題なのです。
 このことにおいて私たちは日本の教会の歴史を悔い改めをもって振り返らなければなりません。神のみを神とし、その主権に従い、人間(天皇)を神として拝むことをせず、国家の命令であっても信仰を曲げることをしない、という歩みを貫けなかった弱さを日本の教会は持っています。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という十戒の第一戒に従い切れなかったのです。その一つの要因は、「聖書のみ」が「贖罪のみ」へと内面化し、聖書全体に聞き従う信仰が不十分だったことにあるのではないでしょうか。「聖書のみ」を受け継ぐ私たちの大切な課題がそこにあります。

B万人祭司(全信徒祭司性)

 主イエスの祭司としての働きは信仰者一人ひとりにも与えられています(Tペトロ二・4?5)。だからプロテスタント教会には「聖職者と一般信徒」という区別はありません。全ての信仰者は祭司として立てられています。しかし実際には、牧師が聖職者化していないでしょうか。信徒が「教会のことは牧師先生にお任せ」と思っており、「お客さん」になっているとしたら、あるいは牧師と長老たちのみが忙しく働き、他の人はそれを遠巻きに見ているようでは、一部の人たちだけが祭司的な働きをしており、実質的には聖職者と一般信徒の違いが生じていることになります。また牧師自身も、自分こそがこの教会の祭司なのだから教会員は自分の言うことを聞くべきだ、と思っているとしたら、「全信徒祭司性」は全く生きていません。日本の教会の閉塞状況の一つの原因がそこにあるのではないでしょうか。裏返せば、「全信徒祭司性」を本当に生かしていくことができれば、教会はもっと元気に生き生きと伝道していくことができるのではないでしょうか。信仰者一人ひとりがキリストによって祭司として立てられていることを覚え、兄弟姉妹のために執り成しをし、また世の人々のためにも祈りと伝道による執り成しに生きるようになるならば、しかもそのことが主イエスによる救いの恵みへの応答として、自発的に喜んでなされていくならば、教会は今よりずっと生き生きとした元気な群れになっていくはずです。
 「長老制度」は本来この「全信徒祭司性」を生かすためにこそあるのです。牧師は全信徒が信仰を告白し、み言葉を語り、証しし、伝道する預言者として生きるための先頭に立つ者です。長老は、全信徒が教会の頭である主イエス・キリストの王としてのご支配の下に立ち、その勝利に支えられて罪と戦い、自らと兄弟姉妹(教会)をその攻撃から守っていく王としての務めを果たしていくために先頭に立つ者です。そして執事は、全信徒が他者のための執り成しを祈りと愛の業、奉仕によって行い、祭司として生きることの先頭に立つ者です。いずれも、その務めに立てられている人だけが預言者、王、祭司であるのではなくて、全信徒がその働きに生きるために、その先頭に立って仕える奉仕者なのです。長老制度の目的がこのように「全信徒祭司性」を生かし、そこにしっかりと立つ教会を形成することにあるという理解は、これまでの日本の教会においてあまりなされて来なかったように思います。そのために、実質的には「聖職者と一般信徒」の区別の復活のようなことが起っているのではないでしょうか。「全信徒祭司性」をしっかりと視野に入れた教会形成が、私たちのこれからの大切な課題であり、教会の活性化、生き生きと伝道する教会の形成への道となると思います。
 宗教改革の三大原理は、今も変わらず、私たちがキリストの体である教会を形成していくための大切な指針なのです。


(横浜指路教会 牧師)


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