科学、テクノロジー、そして神の善き創造
(Science, Technology and God's Good Creation)

デヴィッド・ファーガソン
(訳:砂民宣)

 私たちの多くは、実際にそれを用いて働くようになる前に、既に学校や大学で科学を学んでいます。しかし信仰との関連で、科学の重要性について考えてみることは大切なことです。科学に対する最近の姿勢はアンビヴァレントな(異なる二つの感情が併存した)ものです。私たちは科学に対して、信頼と疑い、希望と不安、敬慕と無知といった、混じり合った感情を示します。そして私たちが歌う讃美歌は、このような感情を適切に表現しています。私たちは、神が科学や医学といった恵みを与えてくださったことをほめたたえます。しかしテクノロジーという人間の業によって手がつけられていない、素朴な世界というものに対するロマンティックな憧れをも持っているのです。それについては、ウィリアム・ブレイクの素晴らしい郷土愛の詩である「そしてあの足が遠い昔の時に (And did those feet in ancient times)」に、明白に詠われています。この詩の中で、イギリスの緑に富んだ心地良い土地は、工業化時代の暗くて悪魔のような工場と鮮やかな対照を成しています。

 私たちはまず、風刺するといった姿勢を取り去って始めることが必要です。科学を信奉する人たちの中にも、宗教を絶対とする人たちの中にも、双方に風刺するという姿勢が見受けられます。科学者たちの中には、宗教を主観的(主に好みの問題である信仰によっている)、偏狭的(様々な宗教がある)、感情的(感覚や宗教体験に基づく)、そして証明や証拠に欠けたもの(論証できない知識という唯一の見解がある)として片付けてしまう人たちもいます。こうした人たちにとって科学は反対に、客観的(事実と関係している)、普遍的(科学的な唯一の世界がある)、そして証拠や確証、証明(理論は覆され、或いは勝利を得る)といったものを探求するという点で合理的なものです。オックスフォード大学のリチャード・ドーキンスは、宗教についての、おそらく最も知られた科学評論家でありましょう。彼はしばしばこの姿勢をとります。その一方で、宗教を支持する者たちの中には、科学が無神論的であり、倫理抜きの発達を追求し(特に遺伝子工学において)、その進歩は生態学的破壊と核破壊を引き起こす恐れがあるとして、科学を信用しない人たちがいます。しかし、神学者と科学者の双方は、厳密に考えたり、理知的な誠実を貫いたり、真理を追求することができるということを、私たちは認めるべきです。

 科学と宗教の討論は、過去20年以上に渡って勢いを増してきました。その理由は何でしょうか。以下のように述べることができるでしょう。

  1. 最近の討論の先駆けとなったのは、3人の指導的な科学者・神学者たち、すなわち、イアン・バーバーアーサー・ピーコック、およびジョン・ポーキングホーンです。
  2. 指導的な科学者たちは、広範囲に及ぶ主題で大衆向きの書物を書き著しています。それらはベストセラーになり、一般の人々の心を捕らえました。その中にはリチャード・ドーキンスポール・デイヴィス、およびステファン・ジェイ・グールドといった人たちが含まれています。
  3. 制度上の変化が生じました。そのほとんどは、アメリカ主導のものです。たとえば、宗教および科学のためのシカゴ・センター、カリフォルニア州バークレーにある神学と自然科学のためのセンターの開発や、テンプルトン財団が科学と神学における数百に及ぶコースのスポンサーになったこと等が挙げられます。現在では、ケンブリッジやオックスフォード、プリンストンといった大学で、「科学と宗教」という分野を独自に教授する人たちがいます。私は日本において、この分野が発展していることを期待しています。
  4. キリスト教の主流が衰退し、啓蒙のための宗教的な刺激を、科学者に求めるようになったことにも言及することができます(例えば、地球外生命や天使、および空想科学小説(SF)等についての関心は、宗教的な何かを持っている)。

 科学と宗教の関係を理解するための主要な類型学の一つが、イアン・バーバーの著書である『科学時代における宗教』によって提案されています。

 バーバーは幾つかの可能なアプローチを提案しています。

1.対立
 科学的唯物主義は、物理学、化学、および生物学の法則によって、全てが説明され得ると主張します。科学が物理学の法則を発見したように、宇宙のすべての出来事は、究極的には科学によって説明することができるというのです。この場合、他の説明は一切余分なものとなります。従って、人間の行動、倫理、芸術や宗教といった諸現象も、物理学、化学、および生物学の支配下にある事柄の運動として説明されます。自然科学の説明理論を原則として、全てのものが還元できるというのです。
 別のタイプの対立が、聖書の逐語主義にも見出されます。もしも聖書がXであると言い、科学がXではないと言うならば、神が語ることと人間が言うこととの間に対立が生じます。この論争における唯一の勝者は神です。その結果、聖書と対立する場合は、科学を拒絶しなければなりません。この対立は、宇宙および人間の創造、創世記第3章の堕罪物語についても当てはまります。こうした対立は、アメリカ合衆国を悩まし、裁判にまで持ち込まれた信仰上の闘いに表れています。似たような緊張は、進化論に対するイスラム教徒の姿勢にも見出されます。
 対立に関する最も有名な二つの例は、ガリレオ・ガリレイ(1564年〜1633年)とチャールズ・ダーウィン(1809年〜1882年)です。ガリレオは、地球と他の惑星が太陽の周りを旋回しているという仮説を主張したために、ローマ・カトリック教会から非難されました。これはつまり、私たちのシステムは太陽中心であって、地球中心ではない、という主張です。この考えは、教会の教え、聖書、およびアリストテレスとも対立しました。ガリレオは自宅監禁され、審問所における拷問による脅迫のもと、主張を無理矢理に撤回させられました。ダーウィン自身は英国国教会の熱心な信者でありました。しかし彼の考えは、は神によって別個に造られ、それぞれの環境に摂理的に調和させられたという神学的見解に対立すると思われたのです。ダーウィンの理論によれば、種は最も原始的な形から、自然淘汰という長く過酷な過程を通って進化して来たのです。こうした見解の食い違いは、1860年にオックスフォード・ユニオンで起きた有名なハックスレー-ウィルバーフォース論争によって普及しました。
2.独立
 科学と宗教は、それぞれ独自の主題を持っています。科学者たちによって探求されるように、科学は物理的世界に関係しています。一方、宗教は精神領域や個人の生命に関係しています。長い間、科学と宗教は区分されてきました。月曜日から金曜日まで科学に従事し、日曜日には教会の礼拝に出席するという人は大勢います。彼らは科学と信仰との間に、特に矛盾を感じません。それは科学と信仰が、彼らの生活のそれぞれ異なる部分と関係しているからです。実際にあなた方は、大学で人文学に基礎を置く学科を教えている人たちよりも、科学を教えている人たちの信仰に、おそらく共感することでしょう。
 或る科学の先生が、このアプローチをとても手際よく要約してくれました。それは次のような主張です。科学というものは、虹がなぜ雨上がりの晴天に現れるのかを説明することができる。それに対し、宗教のみが、なぜ虹はそれほどまでに美しいのかを説明できる、というものです。ここで大切なのは、宗教が世界の「なぜ」とか理由に関係しているのに対し、科学は私たちに、「どのように」ということを伝えてくれるということです。宗教は私たちの根本的な起源や運命に関係しており、科学は世界が作用する方法に関係しているのです。
3.対話
 ここに、科学と宗教が異なる主題を持っていることを理解する、もう一つのモデルがあります。それでもやはり、それらの主題には接点があるのです。私の恩師の一人であるT・F・トランスは、世界の知解可能性、偶然性、合理性といったものを前提に、科学が常にそれ自身を超えて超越的な源泉を指すということについて記しています。科学的説明の優雅さと簡明さに従う世界は、存在それ自体が宗教的な問いを提示します。神の超越性と被造物に対する神の順応を強調することは、改革派神学が重視することです。神が善なるものとしてお造りになった世界は、神そのものではない。それは神から流出したものではありません。それは永久不変のものでなく、必然的なものでもありません。神の自由な行為によって与えられた一時的なものと考えられます。しかし私たちはこの行為を、慈しみとして考えることが大切です。それは神の被造物に与えられた恩恵です。それ故に、自然界の幸福を探求し、理解し、用いることが、私たちに委ねられています。この点で、神学的センスは科学とテクノロジーから作られ得るのです。
 世界の起源についての、科学における諸々の議論は、常に神学的な議論と近い関係にあります。ビッグ・バンは、無からの創造という神学的見解を確証するでしょうか。宇宙によってその最初の1000分の1秒の存在として現された非常に繊細かつ正確な組織体は、銀河、惑星、および意識的な生命形態の、その後の莫大な年月を可能にします。これは神がデザインした徴なのでしょうか。他にも多くの問いが、私たちに押し寄せてきます。神経生理学は、脳の機能についての知識と、霊と心についての神学的主張とを、どのように結びつけるでしょうか。古代史に関する私たちの知識は、アダムとエバ、および堕罪についての聖書の主張とどのように関係するのでしょうか。これらは、科学者と神学者との対話を必要とする、重要な分野です。

 私たちはまた、これらのモデルが、相互に排他的ではない、ということにも言及しておかねばなりません。神学者は異なる時や場所にあっても、上記の三つの係わり方に従っている自分に気付くことでしょう。このように、表面上は対立があるかもしれませんが、一方には独立があり、他方には対話と統合があるのです。この次は、あまり理論的でないアプローチを採りいれ、科学とテクノロジーが信仰と交差する、より実践的な方法について考えてみたいと思います。

科学とテクノロジーの重要性

 私たちの生活様式に科学とテクノロジーが大切であることは疑いのないことです。私たちが住む現在の世界は、私たちの先祖が100年前に住んでいた世界とは、大きく異なっています。発達し、産業化した世界において、私たちは改良された住宅や水道設備、下水道設備、および教育といった遺産を徐々に増やしてきました。しかし現在、私たちはそれよりもっと大きな発展を遂げました。自動車や列車、および飛行機によって、遠くに、しかもより迅速に旅することができます。テレビやビデオを観たり、或いはまた映画館で映画を観るなど、私たちは家の中でも外でも楽しむことができます。電気掃除機や洗濯機、および皿洗い機の登場によって、家事は一変しました。途方に暮れるほどずらりと並んだ数々の薬、そして手術や予防対策により、現代医学は私たちに長寿と健康を与えます。現代医学はまた、小児の死亡率を減少させ、産児制限(避妊)を供給し、痛みを取り除き、伝染病を撃退し、かつては不治のものとされていた数々の病気を撲滅しました。80歳、或いは90歳の誕生日を祝うことができる可能性は、一世紀昔と比べると、非常に大きくなっています。私たちの労働生活においても、過去20年に渡るコンピューター・テクノロジーの発達により、何らかの形で影響を受けています。70年代の終わり頃、学生として、いくぶんこれに似た会合に出席していた時のことを思い出します。そこで、シリコン・チップがいかに人間の生活に大きな変革をもたらすかという話を聞きました。当時の私には、それほど大きな印象を与えませんでした。しかし現在私は、ものを書く時には必ずコンピューターを使います。毎日25通を越えるEメール・メッセージを処理し、ウェブ・サイトを定期的にチェックし、本やビデオ、旅行のチケットなどもコンピューターを通じて購入しています。勿論これは、他の人々がコンピューターを使ってしていることの一部に過ぎません。私たちは、次世代のコンピューターに、より多くの仕事を引き継がせることが期待できます。そしていつの日か、ロボットが家の中を掃除し、車を運転し、庭までもきれいにしてくれる時が来るでしょう。

 これらの事が、科学がもたらしてくれる恩恵であるならば、なぜ私たちは科学を恐れ、より単純でひなびた生活スタイルを望む必要があるでしょうか。ここに4つの提案を述べておきます。

i)

 私たちは、科学が自分たちを非神秘化するのではないかと恐れています。全てを説明することで、私たちの世界は魔法から解かれるでしょう。もしも科学が、私たちは完全に予測できる原則に則って動いている分子の集まりに過ぎない等ということを明らかにするならば、魔法や不思議な事、および謎といったものは全て、人間の生活から消え失せてしまうでしょう。これは科学と宗教との間の、一つの重要な緊張点です。それはまた、『ハリー・ポッター』『指輪物語』のような、最近の本や映画が人気ある点に反映しているかもしれません。実のところ私たちは、魔法にかけられたような世界を望んでいるのです。しかしそうした世界には、善と悪との闘いがあることは明らかです。

 多くは、私たちが意識と精神あるいは霊的な生活をいかに評価するかにかかっています。これは生き残りの闘いの中で、高等な動物に優越を与えるという、単なる進化の結果なのでしょうか。或いは、私たちが美しさや善良さ、および真実といったものの価値を認識することができるように、神がデザインされた結果、宇宙に意識というものが現れたのでしょうか。しかしそのことは神の内にあり、生物学では完全に説明することはできません。これは部分的に、聖書が人間について述べていることと関連があるに違いありません。聖書は、人間が神にかたどって造られ(創世記1:26)、天使に僅かに劣る地位を与えられた(詩編8:5)と述べています。こうしたことは、神、隣人、生き物や地球との関係において、責任をもって行なわれねばなりません。

 霊についての宗教的言語は、私たちが単なる物理的な生き物ではなく、宗教的、道徳的、美的真実を理解することのできる精神的な生活を持つ存在であるということを説明するのに、伝統的に用いられてきました。人間の文化の水準で何が起こっているのかを、科学が適切に説明できるかどうかは疑わしいことです。これは、芸術や人文諸学科、および神学といった世界に属する、幾つもの異なる範疇を必要とします。芸術に対する鑑賞力、道徳に対する認識、および宗教上の信仰といったものは、自然科学によって容易に説明できるものではありません。こうした意味で、科学が全てのことを説明でき、私たち自身をも非神秘化することができるという考えには抵抗すべきです。私の経験では、このように考える科学者は、ごく僅かです。

 これを別な仕方で言うならば、科学は私たちに、とても興味深く、しかも役に立つ知識を与えてくれるものです。しかし科学は私たちに知恵を与えてはくれません。知恵とは、私たちが両親から、隣人や先生、友人から、教会および聖書から学ぶものです。知恵は記憶の共同体を通して伝えられるものであり、科学の伝達によって取って代わることはできません。知恵は私たちに、他者と上手に生きることを可能にさせます。創世記1章から2章は、私たちの注意を創造のしくみに向けさせるのではなく、神のもとでの目的と意義に向けさせます。

ii)

 私たちが科学を恐れるもう一つの理由は、科学が私たちを、未知の、不慣れな、ぎょっとするような世界へと導くのではないかという不安にあります。止まるところを知らない科学の進歩は、人生における私たちの目的や目標を越えてしまい、新しいアジェンダを押しつけてくるのではないかと、私たちは心配するのです。これは現在の時点では、人工知能を取り巻くロボットやコンピューターが引き継ぐことでしょう。遺伝子工学も私たちに不安を抱かせます。全ての点で私たちの最高をしのぐ超人を、いまにも発明しそうな状況です。科学者と医者たちは、神のように振舞っているという非難を、私たちはしばしば耳にします。

 自分の考えを正当化するわけではありませんが、こうした不安のほとんどは、根拠のないものだと思います。医学者たちによって語られていることの多くは、予防医学の進歩や、手に負えない状態を治療する一連の方法が広がっているということです。いずれにせよ、子供たちは新しいテクノロジーに少しも不安を抱いていません。そして私たちが家庭に持ち込む精密なVCR(ビデオ・カセット・レコーダー)やコンピューター、および他の道具に、とても素早く順応します。他方、ミチオ・カク氏は、彼の著書であるVisionsの中で、生物科学の進歩を通して、21世紀の後半に、人間の生命が経験するであろう変化について述べています。それは、遺伝子の治療により、老化の速度を遅くすることが可能になり、人間は150歳位まで生きれるようになるのではないか、と彼は予測しています。しかし私たちにできることは、これが家庭や経済、および社会生活の中で必然的に伴うことになるであろう変化について、あれこれと推測することだけです。

iii)

テクノロジーの進歩について、私たちが心配する第三の理由は、人間社会を自己破壊へと導くのではないかという不安があることです。核兵器と環境破壊は、二つの最大の脅威です。両者は科学とテクノロジーの進歩が、軍事、経済、および社会目的のために利用された結末です。核の問題は、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終わって以来、あまり報道価値のないものとなってしまいました。しかし今や、多くの点で、私たちの世界はより危険な場所となったかもしれません。冷戦時代に築かれた安定が失われたことと共に、インドやパキスタンといった諸国へ兵器が拡散されたことは、今世紀、核による攻撃の可能性をもたらしました。同様に、経済成長に対する強い願望は環境を脅かし、それに対しては、申し合わせた国際協力によってのみ戦うことができます。

iv)

テクノロジーの進歩が脅威であると私たちが心配する第四の理由は、それが私たちのライフスタイルを困惑させるのではないかという点にあります。私たちはそれに気づかないことがありますが、多くの場合、或る新しいテクノロジーの導入は、社会に大きな影響をもたらします。ほとんどのテクノロジーは、スピードや力、能率を高めるように設計されています。しかしそれによって、他の人と過ごす時間が少なくなるという結果をもたらします。それは私たちを個人主義化し、自宅にせよ、会社にせよ、近所にせよ、私たちが共同生活に参加することを妨げるといった傾向をもっています。宗教と科学に関する最近のテキストから引用してみましょう。

「電子レンジとテレビは、両方とも人間の相互作用を少なくさせる道具である。従来の手法よりも、電子レンジで素早く家族のために、満足の行く料理を作るなどということはできない。電子レンジはなによりも、料理を素早く作る手段として売られている。従って、電子レンジに依存する人たちは、食事を一緒にするよりも、別々の時に食べるという習慣がついてしまう。食事を一緒にし、お互いに会話するといったことが少なくなる。それと同様に、家の中における団欒の空間にテレビがどっかりと置かれることにより、家族間の会話が無くなってしまう。それは視覚的な注意力や聴力が、テレビによって奪われてしまうからである。」

 以上の四つが、何故私たちは科学発展の前進を、感嘆と恐れ、および疑いの混じった目で見る傾向があるのか、ということについての理由です。教会がこうした問題に、何らかの貢献をする手立てを持つことは大切です。ここに、改革派の伝統の独特な特徴と関連するであろう、幾つかの実践的な例があります。

1.

生命の神秘は、毎週行なわれる礼拝やサクラメント、誕生や結婚、死にまつわる諸々の儀式、および日毎の祈りや聖書朗読において、尊ばれ、大切にされています。そして教会だけでなく、音楽や絵、文学といったものも、この神秘を保持するために重要な役割を担っています。改革教会の伝統は、礼拝が単に受身的な傍観者たちの前で、司祭や牧師だけが演じるといったものではないことを、絶えず断言します。礼拝は、全ての神の民による行為です。歴史的に、このことは、ラテン語ではなく自国語によって礼拝を献げたり、詩編を共に歌ったり、聖餐台の周りに集まって聖餐に与かる等といった事柄に、表現されてきました。

2.

未知のものに対する恐れは、信仰によって直面するものです。よく知られた宗教的な指標、その儀式、および神によって明らかにされ、聖書の中に書き留められた知恵への回帰といったものは、私たちに未来と向き合う方法を与えてくれます。知識が増えることと共に、知恵と信頼を維持することも、私たちの幸福にとって大切です。そのような知恵と信頼は、キリスト教共同体によって促進されます。改革派の思考と実践の中で、もう一つよく知られた特色は、神の摂理に対する強力な意識というものです。これは例えばカルヴァンの説教や注解書、韻律のある詩編の言い回し、そして1563年に公布されたハイデルベルク教理問答などに見ることができます。全てのものを約束された目的へと管理し導く、親のような神の愛に信頼することは、不確実さと恐れに囲まれた中で、私たちにとって安心の源となります。私たちが直面している諸問題は、16世紀のものとは明らかに異なるものです。しかし神を信じ、よき創造を信頼するという同一の精神は、今日の実践的な挑戦とも直面するよう、求められているのです。

3.

核や生態系の破壊を通して世界に突き付けられた脅威は、科学者たちだけの問題ではありません。全ての人に投げ掛けられた問題であり、慎重な政治的返答を必要としています。この点で、教会は自覚を持ってこれらの諸問題を論議し、他の者たちと共に、建設的な答えを明白に言えるよう、努力するのです。私たちが神の創造を善なるものと信じ、神の子が受肉されたことを信じるならば、地球がいかに貴く、そこに現れ出た生命が価値あるものであることは、疑い得ないことです。世界は神によって造られ、神によって回復される(買い戻される redeemed)という主張は、科学とテクノロジーが悪魔と化すことを許しません。その代わりに、この主張は、その可能性および責任をもって用いることがいかに大切であるかを認識するよう求めます。私たちは神に対して責任を負っているのです。ここで再び、キリスト教教育の大切さを強調する改革派の伝統というものが、重要な貢献をすることになります。説教を重視することは、歴史的に、教育との関わりと付随して起こってきました。例えばスコットランドでは、『第一規律の書 The First Book of Discipline』(1560年)が、包括的なキリスト教教育の計画の一部として、それぞれの教区に一つの学校を与えるという公約をしました。私たちはここに、読み書きの能力を向上させ、聖書を自国語に翻訳して読ませ、教育と学問のために貢献し、全ての神の民に教理教育を施す(今日ではすっかり失われてしまった実践ですが)といった、強い精神力を見ることができます。さらに私たちは、こうした文脈の中で、特に若者たちの間でキリスト教信仰について熟考し、議論を促進させた、準教会グループというものの重要性を軽視してはなりません。幾つかの地域で、そうした団体が相対的に衰退していることは、私たちにとって大きな関わりを持つ問題です。

4.

現代生活における個人主義、孤立、孤独との闘いというものが、教会で起こることは可能です。教会は虚像の(バーチャルな)共同体には決してなりません。教会は、人々が共に来て、顔と顔とを合わせて触れ合い、礼拝とサクラメントを共に守り、牧会的に支え合うことを要求します。イエスの共同体は、強い人のためのものではなく、何らかの特権を与えられた人のものでもなく、人間社会の頂点にいた人たちのものでもありませんでした。弱く、疎外され、根無し草のように何も持たない人たちのためのものでした。八福 は、私たちに、神の必要性と神の恵みに寄り頼むことを思い起こさせます。科学とテクノロジーの進歩が、福音の目覚しい真実を覆い隠すなどということはありません。聖化についての改革教会の教理は、キリスト者の生活が常に共同体における生活であるということを考えさせます。神聖は私たち個々人の生活を再び秩序立てることを求めるだけでなく、教会や社会の変化をも要求するのです。キリスト教信仰は教会、共同体という形をとって世界中の至る所に存在しています。これは改革教会の認識であり、全キリスト教会の認識でもあります。私たちは共に、特に主の日に、霊的な交わりの中で、キリストを告白し、神を敬うのです。

(訳者 荻窪清水教会 牧師)

※D・ファーガソン教授は、エディンバラ大学の組織神学教授である。8月末から2週間、日本基督教団改革長老教会協議会の招きを受けて来日され、東京、関西、九州において、全部で8回に渡る講演をされた。この講演は、その中の一つである「信徒のための講演会」でなされたものである(9月1日 於 富士見町教会)。ファーガソン教授はとても誠実で穏やかな方であると共に、その深い神学的な洞察力には大きな感銘を受けた。先生が行なってくださった諸講演(この他にも、「宗教改革以来のスコットランド神学の展開と変遷」、「改革長老教会の伝統と今日的意義」等)は、日本の諸教会に大きな刺激を与えてくださったことと確信し、感謝している。


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