QK第五○号発行にあたって

川村輝典

 季刊『教会』が誕生したのは、一九九○年十一月のことであった。日本基督教団改革長老教会協議会(改長協)が、第一回の全国協議会を鎌倉雪ノ下教会で開催したのが一九八五年四月二十五日であったから、それから丁度五年目ということになる。第一号の「巻末通信」によれば、この雑誌は、

「生きた信仰告白の一致と明確な教会理解を求める、一つの教会運動の中から生まれ」たものであり、その目標としているところは、「広い教会史的視野に立って、我々の受け継いできた信仰の遺産を公同教会の豊かさの一環として捉え直し、真の普公教会の形成に奉仕すること」

である旨が明らかにされている。

 改長協の性格については、これまでたびたび全国協議会や代表者連絡会などで論議がなされて来たが、今日大体次のような合意に達していると言えよう。すなわち、この群れは協議会という名称が示すように、連合長老会のような厳密な制度を持つ組織体ではなく、目標はあくまでも明確に掲げつつ、しかも常に裾野を広げて行くことを目指す、日本基督教団内における改革教会の運動体であるという理解である。その趣旨を広く教団内の志を等しくする諸教会に知らせて行くという使命を、この雑誌は見事に今日まで果たして来たということができるのではないであろうか。それは偏に編集の実務にあたって来られた諸牧師の、努力の結果であると言わなければならない。裾野を広くという願いは、毎年夏に行われている協議会と牧師会が、その度ごとに新しい参加者を与えられて来たということによって、一応生かされていると言えるであろう。では、目標の方はどうであろうか。

 この点については、前年度の全国協議会の反省と翌年度への展望について語り合うたびごとに確認されることである。その過程の中で、ある時には各地域に志を等しくする教会の連合体を生み出す、という主張を掲げたこともあり、そのことで改長協が連合長老会を目指し、それに加われない者は排除されるのではないか、という不安を抱かれた方もあったようである。しかし、それは全くの誤解であると言わなければならない。改長協の使命はあくまでも当初から変わらず、運動体であり続けるのである。ただその場合、自分たちの仲間を増やすというようなことにのみ集中し、その性格が曖昧になることはあくまでも避けなければならない。そこで、繰り返し確認することを求められるのが、1982年以来守られて来た基本線である。ニカイア信条を初めとする基本信条と、改革長老教会の伝統を継承するものとしての1890年の日本基督教会の信仰の告白の承認、その伝統に立って日本基督教団の信仰告白への明確な告白・同意が求められるのである。この点さえ明確にされているならば、この運動体は多少の揺れは許される筈である。大事なことは、常に生きた信仰が告白され、それぞれの教会がそれによって勢いを与えられるかどうかである。

 この雑誌の第一号の巻頭論壇を担当されたのが、上良康氏であった。その題は「一八九○--一九九○」というものである。一八九○とは、言うまでもなく日本基督教会の発足の年である。奇しくもそれから丁度百年目にこの雑誌が誕生したことを、上氏は大いに意義ある出来事としてこのような題を掲げられたのだと推測する。そして、それからちょうど十三年目の二○○三年二月にこの第五○号を発刊するに至ったのである。発刊以来只管編集責任者として尽くして来られた芳賀力氏のお働きに対して、心からの感謝を捧げたい。同氏の信仰による忍耐と愛と情熱なくして、本誌はこれほどの長い生命を保つことは不可能であったであろう。これらのことを覚えつつ、本誌の五○号に至るまでの歩みを高く評価したい。

 第一号の巻末通信は、さらに大事なことを語っている。それは、一つには「広い教会史的視野に立って、我々の受け継いできた信仰の遺産を…捉え直」すことだ、と言うのである。われわれの協議会が自らを「改革長老教会協議会」と称し、改革派教会協議会という名称をあえて避けている理由は、改革派という教派に属する教会だけが完全な教会であって、他の伝統に属する教会は、不完全とは言わないまでも主流から外れている、というような傲慢な意識を持つことを排除しようとしたからに他ならない。筆者は「連合長老会」の群れに属しているが、そこで考えさせられて来たことは、自分たちの群れの純粋性を志向するところから生じる、エリート意識ということであった。通常エリートと呼ばれる人は、自分がエリート意識を持っているなどとは、豪も考えない。否、気がつかないのである。そのことは同時に、他の非エリートに対する配慮が全面的に欠如している、ということを意味する。もし、それがキリスト者の場合であったならば、その人の信仰というものは、いったいどうなるのであろうか。

 個人の場合に存在することが、教会の場合にも適合するとすれば、これほど恐ろしいことはないであろう。改革派教会とかルター派教会(日本では比較的小教派なので余り気付かれないが)というような歴史の古い教派が、その危険性を最も多く持っていると言えるのではないであろうか。改革派の伝統そのものは大変素晴らしいものである、とわれわれは考える。しかし、もしそれが他の教派への軽視ということになるとするならば、その立場を崩すことなく、しかもできるだけ包括的な名称が望ましい。そこから改革教会というような名称が出て来たのである。  そのことは、第一号巻末通信のもう一つの強調点である、「真の普公教会の形成に仕える」ということと密接に結びついている。日本基督教団に忠実であれば、そのまま普公教会に仕えることになる、というのでは余りにも単純過ぎるというべきであろう。たしかに教団の教憲の前文によれば、一九四一年に三十余派の教会が聖なる公同の教会の交わりに入ることによって成立したのが、日本基督教団であると言われているのであるから、教団は公同教会乃至普公教会であると言う見解は確かにあるであろう。しかし、日本基督教団がわれわれだけが公同教会であるというのであれば、日本キリスト教会日本キリスト改革派教会、日本ルーテル教会などの他の教会、何よりもローマ・カトリック教会は異端ということになってしまう。何という傲慢な態度であろう。日本基督教団に属する教会の数が、わが国においてたとえ最大であったとしても、それがそのまま公同教会であるなどとは、口が裂けても言ってはならないことではないか。

 公同教会とは、十字架と復活の主を頭と仰ぐという点で一致し得る、地上の全教会を含む教会である。それは見えない形ではすでに天において存在しているが、見える形では終末の時まで実現することのない唯一の教会であり、その意味でそれは常に目標として意識されなければならないものである。その実現を願わないところには、主の教会はあり得ないと言わねばならない。では、教団はこれとどう関わるのか。

 日本基督教団も当然のことながら、公同教会に属する教会の群れの一つである。しかし、個々の教会は教会性を持っているとしても、はたして教団全体として、教会性を持った教会であると言えるのであろうか。もちろん、教憲・教規を持ち、教区総会、教団総会という組織を持ち、信仰告白を備えているのであるから、形の上では教会的権能を所有しているように見える。しかし、それが真の教会であるためには、告白に対する全所属教会の一致した姿勢がなければならない筈である。だが現実の状況はどうであろうか。教団は便宜的な組織であって、本来の教会はこれに所属する各個教会のみであるというのであれば、それも一つの見解であるかも知れない。しかしそれにしては余りにも長老制度を模倣し、全体としての装いを整備することにエネルギーを用いて来たのではないであろうか。しかも依然として、長老教会とはおよそ縁遠い状況である。いったい何を目指しているのか、だれも見当がつかない有り様である。そのような状況の中で、教団のこれからの進むべき道を見い出しているのが、われわれ改革長老教会協議会に属する者たちである。もちろんわれわれは、教団の解体を目指しているのではない。かってある人が、この協議会はいわゆる造反が左からのものであるのに対して、右からの造反である、という大変無謀な規定をしたことがある。教団が自然に崩壊した場合にどの道を選ぶかについては、覚悟はできている。しかしその道ではなく、別な道、すなわち教団を本当の意味での合同教会たらしめる、という道を現在のわれわれは最善のものと考えているのである。たとえ国家の要請によったとは言え、せっかく合同したのだから、これをそのまま一教派たらしめることができるならば、それが一番よい道であるのかも知れない。だが、これに属している30有余の教会というのは、かなり教会についての考えを異にしているのである。複数の同質の教会が集まって一つの教会を形成する、というところに教会のあり方を見出している教会があるかと思えば、一つ一つの教会のみが教会であって、その上に連絡組織を作ることは必要はあっても、それを教会と認めることには断固反対という教会が、教団内にはかなり存在するのである。それも無自覚的にではなく、自覚的にそう考える教会が現に幾つもあるのである。

 このようなところで、一つの教派的教会を形成することは不可能である。それゆえ、最も相応しいあり方は、幾つかの旧教派的伝統を生かしつつ、しかも基本的なところでの一致を確認するという形での合同教会を、新たに生み出すということである。その際、大いに参考になるのはアメリカ合衆国長老教会(PC(USA))とドイツの福音合同教会(EKU)である、と筆者は考えている。前者では、これに参加しているそれぞれの旧教派の信仰告白を生かしつつ新たな告白が作成され、現在十一の告白となって用いられている。後者の場合には、これに属する三つの旧教派の伝統が、そのまま生かされつつ、ロイエンベルク和協を共通の告白として所有している。

 これら二つの合同教会のあり方は、その所属する教会がすべて同じ形になることを決して求めておらず、それぞれの固有性が認められている。それでは合同教会とは言えない、という考え方もあるかも知れない。しかし、筆者はこのような方法による一致の方が、現在の教団の在り方よりはるかに健全な合同教会の在り方であり、協議会もこの辺に目標をおくことが望ましいと考えている。

(改革長老教会協議会代表・弦巻教会牧師)


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