改めて問う、三要文の位置と意味

加藤常昭

 恩師ルードルフ・ボーレン教授のスイス・アルプス山中の山荘で何週間かを過ごしたことがある。アイガー北壁を正面に仰ぎ見る家である。夕食を夫妻と共に摂る。食前に感謝をするのは当然であるが、食後にも祈る。ヘルンフート兄弟団の聖書日課ローズンゲンを先生が改めて読み、それから三要文を唱える。ウルズーラ夫人と私とは、使徒信条と主の祈りを唱えることはできるが、十戒となると先生がひとりで唱える。省略なしであるから、かなり長い。独特のリズムと抑揚で唱える。夜のしじまに響く声は今も耳に残る。

 かつてもボーレン家で過ごしたことがあるが、三要文による祈りは、新しい経験である。ウルズーラさんと結婚してから始めたことであろうか。尋ねてはいない。しかし、もうひとつ考えられるのは、あの『天水桶の深みにて』(日本基督教団出版局)に記されているような深い経験が促したものであろうかと思う。最初の来日の時に、東京神学大学の学生たちに、使徒信条を朝夕に祈ることを教えられたことがあるが、その後、最初の夫人がこころを病んで自殺し、自分もまたこころを病んだ。そこで知ったのは、「外からの言葉」によってこそ慰められ、癒されるということであった。ハイデルベルク信仰問答の問一や、問五三の聖霊信仰の言葉を暗誦し、また聖書の言葉を暗記することを学び直したのである。この書物はボーレン先生の神学、信仰のすべてが凝縮したような名著である。深い悩みの淵にあって、三要文を日々の祈りとすることの大切さを改めて学んだのではないかと思う。聖書と教理の言葉によって生かされることが、どれほど潤いに満ちたことであるかを改めて発見されたのである。

 クリスティアン・メラー教授も、私が訳した慰めの共同体・教会』(教文館)において、改めて、ルターがシュマルカルデン条項で「先行する外からの言葉」と呼んだ神の言葉に生かされることが、どれほど大切かを強調して語った。人間の内部から語り出す言葉では、何ほどのこともなし得ないことを明らかにしているのである。

 改革者ルターは、大教理問答その他で、カテキズムが日々の祈りになることを求めた。ボーレン教授の三要文による祈りは、この伝統に基づくものであった。教理の言葉が、そのまま祈りの言葉となったのである。古い時代に、traditio symboli という言葉が生まれている。「教会の信仰の言葉の伝承」である。具体的には、洗礼志願者に教会の伝統的な信仰の言葉を伝えることであった。志願者は、それを教会員の前で唱え直した(redditio symboli)のである。

 洗礼志願者は、そこでは何よりも、それぞれの教会が伝える信仰告白の言葉を唱えさせられた。古ローマ信条を母胎とする使徒信条もそのようにして生まれた。だから、厳密に成立過程を追うことはできなくなっているが、使徒信条こそ、最も古い基本信条であると理解されるのである。ニカイア信条が正統教理確立の戦いから生まれ、やがて公同のキリスト教会の礼拝の姿勢を整える基本的な信仰告白(カトリックで言えば信仰宣言)の言葉として広く定着したのに対し、使徒信条や、それに類する各教会の信条は、洗礼志願者教育のための信仰告白として重要な役割を果たした。やがて、使徒信条、十戒、主の祈りから成る、いわゆる三要文が、そうした教会の信仰の言葉として定着したのは、中世におけるゲルマン伝道においてであったという記述がある(福音主義教会事典第二巻の「カテケーゼ」の項、クラウス・ヴェーゲナースト執筆)。ルターもまた、その伝統を受け継いだのであろうか。

 私たち日本の教会に生きる者もまた、この伝統を継承することの意味を再発見すべきであろう。「外からの言葉」に生かされるために。いのちの言葉に生かされるために。三要文が、教会の言葉であると共に、ひとりひとりを生かす言葉であることを学び直したい。祈りの共同体である教会に生きるということは、その教会を生かしてきた、言葉の伝統のなかに、自分も立つということであったのである。

 三要文という用語は、日本プロテスタント教会の歴史の最初から見られる。福音新報第六五号記載の植村正久の「日本の基督教文学」によれば、マルコによる福音書の翻訳に次いで早く訳され、刊行された。ヘボン宣教師に奥野昌綱牧師が協力して生まれたものであり、一八七〇年(明治三年)には刊行されていたのではないかと推測されると言う。これを紹介する植村正久と其の時代』、第四巻、五九ページ以下には、その訳文まで掲載されており、興味深い。そのモデルとなったのは、培端、つまり、中国で伝道した英国長老教会の宣教師、ウィリアム・チャルマーズの手になる漢文の書物『信操三綱』(一八六〇年)であったのではないかとも言う。つまり、三要文という呼称は、このとき生まれた新しい日本語であったようである。

 もっとも、日本聖公会最初の主教となったウィリアムズが、既に一八六一年(文久元年)、三要文を訳している。ただし、三要文の名称を用いてはいない。その後、同じ聖公会の伝道者であった山県世根次に『三要文問答』(一八八九年)という著書もあるそうであるので、そうとすれば、その頃には聖公会を含めて、三要文の名が一般化していたということになるのであろう。

 ヘボンたちの『三要文』が、どれだけ普及したかはわからないらしい。ヘボンもウィリアムズも、祖国の教会では常識的になっていた信徒教育の基本的な言葉を教えることを願っていたのであろう。しかし、実際に日本人キリスト者たちが、この伝統を受け入れることに熱心であったかどうかは疑わしい。ヘボンの『三要文』のなかの使徒信条の翻訳に、「公会」の言葉があり、これが基督公会という呼称を生んだという意見もあるが(石原謙)、三要文それ自体の普及度は、よくわからないままである。一八八〇年には、千村五郎訳『海徳山問答』、つまり、ハイデルベルク信仰問答が刊行されているが、これもまた実際に、どれほど多く用いられたのであろうか。まして、日本人の手でカテキズムが書かれることは、山根世根次のもの以外に、ほとんどなかったのである。その関心がなかったのであろう。求道者指導、受洗志願者教育に際して、三要文が広く重視されたという形跡もあまりなかったように思われてならない。高知教会の牧師多田素の『牧会百話』にも、三要文の文字は全く見られない。

 いわゆる日本キリスト教史の概説書でも、三要文が重視されることはない。それは、三要文が信仰、教理の歴史上、注目すべき位置を占めなかったということであろうか。それとも、歴史家たちに、その関心がなかったのであろうか。

 三要文が重要な位置を占めるはずの場所は礼拝である。誰の手になるかは不明であるが、日本基督一致教会時代のものと言われる『基督教礼拝式』というのがある。そこで示されている朝拝においては、主の祈りと十戒、夕拝においては、主の祈りと使徒信条(もしくはニカイア信条)が配置されているが、この礼拝式もまた広く用いられたとは言えないようである。ついでに言えば、ここでは、主の祈りが礼拝冒頭に置かれ、「神を呼ぶこと」とされている。多くの教会で、主の祈りを礼拝の最初のほうで祈られたのは、こうした考えによるのかもしれない。そのためもあったのか、三要文のうちで、礼拝において重んじられたのは、何よりも主の祈りである。使徒信条を唱えるということになると、旧日本基督教会の諸教会でも、それほど行われたわけではないようである。十戒については、宣教師バラが、自分が採用していた礼拝式において、「祈祷と十戒の朗読をもって」始めたと書いている(『植村正久と其の時代』、第一巻、四三〇ページ)。そのあとで、聖書が読まれ、その説き明かしがなされ、質疑も交され、祈って終わっている。主の祈りも開会の祈りとしたと記しているので、『キリスト教礼拝式』に近いものであったのであろうか。しかし、私の知る限り、例外はあるものの、その後、日本の教会で、十戒が礼拝において広く用いられたということは言えないように思われる。

 三要文による教会の信仰の学びが広く行われるようになったのは、第二次大戦後のことではなかろうか。竹森満佐一牧師の名訳『ハイデルベルク信仰問答』の刊行(一九六一年)が果たした役割が大きかったのではないか。ついでに言えば、竹森訳が、今は絶版になっていることは残念である。こういう古典的な意味を持つようになったカテキズムの訳書は簡単に排棄されたり、研究者たちが競うように新しい訳を刊行するようなものではないと思っている。

 礼拝における三要文の重視もまた、やはり戦後のことであろう。しかも、戦後すぐということではなかったと思われる。新しい世代の牧師たちが、新鮮な感覚で礼拝刷新を試み始めたときからであろうと思われる。長く広く行われてきた、まことに簡潔な礼拝形式に代わって、礼拝が招詞によって始められ、三要文がすべて加えられ、会衆が唱えるようになったのは、それほど昔のことではないのである。

 三要文として一括された三つの文章が、それぞれに固有の働きをしてきたことは言うまでもない。

 おそらく最も早く重視されたのは、主の祈りであろう。二世紀の文書『一二使徒の教訓』が既に日に三度、主の祈りを祈るように教え、主の祈りは、個人の密室の祈りとしても、教会や修道院における共同体の祈りとしても大切にされてきた。おそらく、われわれの場合には、礼拝でも祈祷会でも、安易と言えるほどに、何かと言えば主の祈りを共同の祈りとして祈っているために、かえって、これを密室の祈りとして祈ることが少ないのではないかと思われる。ひとりで祈る祈りとして、これを体得することを、信徒に教えることが大きな意味を持つのではないかと思う。祈ることの大切さを教えられながら、実際には祈ることが少ない教会員が多いのではないかと思われるし、それが教会の弱さを生んでいると思われるからである。求道者もまた、祈ることなしに求道し得ないのであるが、主の祈りは、求道者の祈りとしても大切にすることを教えたい。

 主の祈りは伝統的な礼拝においては、聖餐の祝いと深く結びついていた。カトリック典礼において、聖体拝領と結びついて祈られてきたことにもよるであろう。福音主義教会最古のドイツ語聖餐式文である、一五二二年のカスパール・カンツのドイツ語ミサにおいても、制定語に続いて祈られる。この順序は、一五二三年にルターが書いたラテン語によるミサでも継承されている。しかし、一五二六年のドイツ語ミサでは、説教のあとで、パラフレーズされた形で祈るように位置が変えられている。制定語に続く場合も、キリストの恵みに対する会衆の応答の意味を持ったのであろう。そのために、聖餐から説教へと重点が移るに従い、説教のあとで主の祈りをするようになったと考えることができるであろう。ついでに言えば、現在のドイツ福音主義教会の礼拝順序では、説教に続いて信仰告白として使徒信条(ニカイア信条)が唱えられ、主の祈りは、やはり、聖餐制定語に続いて唱えられるようにになっている。もともと、ルターの礼拝順序では、信仰告白には位置が与えられていなかったのである。

 カルヴァンもまた、ルターと同じように考えたのであろうか、主の祈りは、説教に続く長い祈りに続いて祈られる。当時の慣習からか、司式者が祈る。しかも、かなり長く敷衍した形で祈られる。この伝統は広く改革教会で受け継がれた。しかし、ジョン・ノックスの礼拝式文、ウェストミンスター礼拝指針では、主の祈りの言葉そのものを唱えることを求めている。この形式は、ドイツの改革教会でもほぼ継承されているが、より独立しており、説教、説教の応答としての讃美歌、続いて報告(公告)があり、それから主の祈りを会衆が唱えるようになっている。

 そうなると、礼拝の最初に主の祈りをする伝統は、どこから生まれたのかという問いが生じる。後藤憲正『改革派教会の礼拝』(大森講座2、新教出版社)によると、一五四九年の英国教会第一祈祷書から始まるものであり、宗教改革以後、罪の赦しの求めに強調点を置いて解釈され、礼拝の初めにするようになったと言うが、そうであろうか。英国教会では今でもそうしているが、主の日には、朝拝(早祷)と夕拝(晩祷)を行い、それとは別に聖餐礼拝を行なう。これが、われわれの間で、朝拝、夕拝という用語が広く用いられているように、日本のプロテスタント教会でも受け継がれたところのではないかと私は思う。朝拝、夕拝は、それぞれ英語では、mattines,vesper service(Even-song) と呼ばれるものであり、もともと伝統的な聖務日課に属するものであった。聖餐を祝うミサとは区別されてきたものである。聖務日課は、主の祈りを唱えることを重視する日々の祈りの日課であった。そこで、第一祈祷書の早祷では、主の祈りから始まった。それをスコットランドのいわゆるロード・リタージーが受け入れたのではなかろうか。私は歴史家ではないが、そう推測するのが適切であろう。そう考えると『キリスト教礼拝式』が、既に朝拝、夕拝の区別をしていたことも理解できるのである。ついでに言えば、第二祈祷書が、改めて、十戒を導入している。改革派的変革と呼ばれたものである。その影響が、『キリスト教礼拝式』にも見られるのかもしれない。この式文は、英国に由来すると言える。

 十戒が、礼拝の最初における罪の悔い改めと共に用いられるようになったのは、カルヴァンの『祈りの形式』に始まるということは、よく知られている。ルター派の伝統による礼拝形式には見られないことである。十戒を悔い改めと結びついた罪の認識を促すものと理解し、しばしば、これに更にキリエ(主よ、憐れみたまえ)の祈りが続いたのは、むしろルター派的であると見るひともあろうが、それほど図式的にルター派と改革派における律法の用法を峻別するのは、かえって誤解となるのではなかろうか。それどころか、ルター自身にはなかった考え方である。

 かつて、東京神学大学に、あるカトリック神学者を招いたとき、カトリック教会は、プロテスタント改革においてカテキズム教育が重視されたおかげで、公教要理による信徒教育に目覚めたのです、と言われたことがある。プロテスタント教会に対抗するためにもカトリックは、自分たちのカテキズムを不可欠とするようになった。信徒たちの信仰の足腰を強めなければ戦えない思ったのである。改革期に積極的に海外伝道をした修道会が、日本におけるキリシタン教育にも、『どちりいな・きりしたん』などの、いわゆるカテキスモを日本語で書き、それを武器としたことは、もっと高く評価してよいことであろう。当時の農民たちは、教理をもって武装したのである。

 カテキズムの用語は以前からあったし、それなりの信徒教育が行われていたであろうが、それを先駆として、カテキズム教育に新しい領域を開いたのは、改革者ルターであった。一五二〇年、三要文の要解を記したが、その序文は、このように始まる。

「聖書を読むことのできない一般のキリスト者に、十戒、使徒信条、主の祈りを学習するよう、さだめられているのは、神の特別な配慮によって生じたものである。この三つの部分には、聖書の中に存在し、いつも説教されねばならないすべてのこと、またキリスト者が知っておかねばならないすべてのことが、根本的、かつ十分に包括されており、そして何びとも彼の救いのために必要なことが、記憶するにはむずかしすぎるとか、多すぎるとかの、苦情や免除を申し立てる余地がないほど、簡潔、平易に教えられている」(ルター著作集、第一集、第二巻、聖文舎、四三五ページ)

 自力で聖書を読むことができない民衆が、自分の信仰を聖書の言葉が語る真理によって生きるのには、三要文が最善の道であるという判断は、今日、誰もが自由に聖書を読むことができるようになったからと言って意味を失うようなものではなかろう。むしろ、誰もが自由に読み、解釈するために陥っている混乱から抜け出て、教会員が正しい聖書理解を学ぶためには、改めて三要文と、それが言い表す教会の伝統的な、共通の理解を体得しなければならない。

 ルターのカテキズムについて詳細な解説書五巻を著した、ハイデルベルク大学のアルブレヒト・ペータース教授が、その研究において、使徒信条をルターが愛したのは、それが、きわめて聖書的であるとということと並んで、洗礼に用いられ、その基礎になったことにもあったと言っているのも、注目すべきことである。洗礼を受け、キリスト教会という共同体に入会するとき、その基盤になるのが、使徒信条を中心とする三要文である。

 長老教会は、受洗志願者を長老たちが試問するが、そこで尋ねるのは、特別な回心体験をしているか、どれほど立派な独自の信仰の言葉を獲得しているかというようなことではない。「私たちの信仰」の言葉である使徒信条に同意して、「私の信仰」を言い表すかどうか、そして十戒を主の祈りを体得して、教会員としての生活を、私たちと共に歩む決意をしているかどうか、という一点に、かかっている。だからこそ、受洗志願者は、カテキズムを用いた教育を受け、三要文を体得しておかなければならない。キリストのからだである教会の共同体としてのアイデンティティは、このように三要文によって確保されるのである。

 ペータースが、その著書の冒頭で、カテキズムが問答体で形作られるひとつの理由は、告解、つまり悔い改めと赦しのための対話を背景にしていると指摘していることもまた留意すべきことであろう。教会員が罪を犯したとき、改めて罪を悔い改めて、赦しを得て、教会に復帰できるのも、三要文が語る教会の信仰に支えられてのことなのである。この悔い改めの対話として整えられるべき魂への配慮の対話も、その意味では、きわめて教理的なものなのである。

 私は最近、私たちの教会の弱さを、改めて罪との戦いのなかに見る。ルターが改革のきっかけとなった九五箇条の堤題の第一条で明言した。

「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、悔い改めよ、と言われたとき、それは私たちの全生涯が、日々悔い改めであることを求められたのである」。

それは、私たちが常に悔い改め、新しく罪の赦しに生かされ続けることを意味する。「罪人であって同時に義人」であるというルターの命題も、きわめて具体的な生き方を指示するものである。しかし、私が教会のなかにあって、しばしば真剣に問わずにおれないのは、私たちの生活の意識を独占するのは、善人意識、義人意識、ファリサイ派意識ではないか、ということである。そのために、牧師、長老、信徒のなかで、過ちを犯した者が出ると、これを糾弾し、噂の種にし、教会の交わりから排除することで教会の浄化をはかる。カトリック教会やルター派教会が告解(現在のカトリックの用語で言えば、赦しの秘跡)の手続きを踏んで開いている悔い改め、赦し、教会の交わりへの回帰の道は、私たちの教会にはないのか。改革長老教会の特質であるはずの戒規もまた現実に力を発揮していない。戒規もまた罪人が、教会にあって、日々の悔い改めに生かされるためのものではないのか。そして、聖書の福音の目ッセージの要約であるはずの三要文もまた、そこでこそ力を発揮するはずではないのか。

 三要文によって、私たちの教会は、その公同性を確保する。それによって洗礼入会の手続きを整えることによって、教会員は、世界の教会の一員となる。その上で、公同の教会の信仰の言葉である三要文を、私たち改革長老教会独自の視点で解釈する。そのために今なお私たちを支える重要な働きをするのが、改革教会の信仰告白文書であり、信仰問答である。特にハイデルベルク信仰問答は、私たちの教会としてのアイデンティティを確立するために、既に重要な働きをしてきた。ドイツにおける唯一の改革教会であったファルツの領邦教会が、礼拝に関する規定を定めたとき、そのなかに含まれるものとして、ハイデルベルク信仰問答を定めたことは意味が深い。礼拝を造る言葉としての信仰問答の働きを重んじるということは、これをただ信仰の知識、教理の伝達のための文書と理解していないことを意味する。ルカによる福音書第一章が伝える、ザカリアの賛歌に「恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」とあるが、生涯を貫いて礼拝に生きる姿勢を正しく、聖なるものとして整えるようとしたからこそ、キリストに贖われて、全存在をキリストのものとしていただくところにこそ、生死を貫く唯一の慰めを知ると賛美告白する、生命感溢れるハイデルベルク信仰問答の言葉は、私たちのこころを燃やす教理の言葉である。三要文が見事にいのちの言葉として説かれているのである。

(日本基督教団隠退教師)


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