礼拝から伝道へ

G.D.レーマン

聖書 一ペトロ2:9

 「しかし、あなたがたは、選ばれた民・王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

 東京神学大学では、たびたび車の両輪という隠喩を使っている。東神大ではそれは、神学校と教会の関係をたとえて言っていることが多くある。しかしここではもう一つの意味で、車の両輪という隠喩を適用したいと思う。つまり、この隠喩を通して伝えたいことは、我々の教会の生活においては、礼拝と伝道こそが我々の二つの車の両輪である。両方とも必要であり、また、この二つの間にバランスが必要である。今日の教会の質的成長のためにも、人数における成長においても、この二つの問のバランスが必要であるように思われる。この二つはどのように関連しているかと〕、いうことまた、我々の信仰生活の実践そのものにはどのように関係しているのかも考えてみたいと思う。まず、聖書がこれらの事柄についてどのように語っているかを明らかにしたいと思う。

T.聖書における礼拝と教会の使命の関係

 旧新約聖書から礼拝の性格に関して学んでみて、まず分かることは旧約と新約両方において共同体の礼拝と伝道の使命が繋がっている。旧約聖書におけるイスラエルの伝道の使命理解には礼拝の役割が明らかにされている。同じように、新約聖書における教会の伝道の使命を理解する上で、その中の礼拝の役割を考える必要がある。

A.旧約聖書における礼拝と使命

 キリスト教会の礼拝内容の起源を四つの歴史的要素に見ることができる。

一、シナイ山の出来事

 そこで、旧約聖書の礼拝に関連する事柄を検討してみたい。まず、シナイ山の出来事によって律法が与えられて、それが神とその民の関係の基礎となった。その中で何が明らかになったかというと、それは礼拝において神と出会うことができるということである。神の側から、神の民との関わりの道が開かれている。そしてもう一つは、神の民は神の前で責任がある、責任のある立場にあるということも示された。神との交わりの中で、神のみ言葉が宣べられる、伝えられる。その上で、神の民がその神からのみ言葉に同意する、それを受け入れる、礼拝においてその同意を表すことが要求されていた。

 イスラエルの使命は、まず第一に神の自己啓示と恵みによる契約に応えて、聖なる民になることであった。レビ記19:1では、次のように記されている。

「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。

聖なる者であるという事柄が実現する上でイスラエルが異邦人、諸々の国人の光となるということが示されている。

 イザヤ書60:3では、次のように記されている。

「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。

イスラエルはこの神の民の存在、生き様をもって、ヤーウェの証人となるべき者であった。諸々の国々の前で聖なる者となる上で、そういう役目を果たすのである。これは他の民族もやがてヤーウェの主権、普遍的な主権を認めるようになる、信じるようになる道という目標があった。この使命に関連して礼拝の役割は、イスラエルが聖なる者となる役割であり、この民の選ばれた民族としてその聖化の手段である。ヤーウェの礼拝のために聖別されたということである。出エジプト記19:6にあるように、「あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

二、エルサレムの神殿

 後には、イスラエルの礼拝がエルサレムで造られた神殿を中心になされるようになる。この礼拝を通して、どういう経験をしたかと言うと、まず神の臨在を自覚、経験するのである。そしてその礼拝の儀式によって罪を告白して、神の赦しを経験する。その儀式の中で、神との信仰による関係を再確認して、もう一度神の選ばれた民族として、契約を守ることを約束する。そういう意味があったのである。この神殿による礼拝は、イスラエルの聖化の手段と同時に、その礼拝が諸民族、諸々の国人の招かれる中心にもなるべきものであった。イザヤ書2:1-3にあるように、「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として固く立ち、どの峰よりも高く聲える。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」

 ここで注目すべきことがある。旧約聖書において示されているイスラエルの使命は、求心的centripetalである。イスラエルは諸民族に出かけて、神のことを伝えるように派遣されはしなかった。諸民族がイスラエルに来るという形になっていた。イスラエルの神との関係、その生様を見て、その礼拝を見て、惹かれるという形になるべきものであった。だから、その動き、その方向は外から中心へ、外から神殿へ、という動きであった。諸々の国々から人々がその中心、エルサレムヘと引かれるということがポイントであった。

三、シナゴーグ

 歴史的に言えば、シナゴーグ運動はバビロンの捕囚時代に始められたと思われている。そして、後でエズラの時代にパレスチナでこの運動が固められたのである。これはユダヤ人が散らばって行く時代であって、徐々に中近東あるいは北アフリカや南ヨーロッパまで多くのユダヤ人が離散してしまった。新約聖書の時代には、ローマ帝国の至る所にユダヤ人の群れがあり、ローマ帝国全体の人口の七パーセントになっていたと言われている。そのディァスポラによって散らばって行く人たちが、その村その町で、固まったグループができると、つまり十家族くらいができると、そこでシナゴーグを作った。そしてそこで教育と礼拝を行うという形になっていった。そのシナゴーグ運動の発展時代の問、新しい礼拝の形が展開され、実現された。

 このシナゴーグ運動が存続したことの証拠が、新約聖書に随分記録されている。言うまでもなく、これはキリスト教以前の礼拝であるが、しかしそれは神殿の礼拝に比べれば、かなりの進展が見られる。その内容は後のキリスト教礼拝に大いに影響を及ぼしている。シナゴーグの礼拝は三つの部分からなっていた。最初の部分は信仰の再確認、つまり信仰の告白という内容であった。次の部分は祈りであった。そして第三の部分は聖書を中心とした部分である。その内容をもっと詳しく述べると次の通りである。

(a)その第一の部分として、信仰の再確認、信仰の告白という部分であるが、それは三つの旧約聖書の聖句をいつも唱えていた。シェマーという、この三つの聖句は全て申命記の引用である。まず申命記6:4-9。ここでは、神の単一性、そしてイスラエルの唯一の神に対する責任が描かれている。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。

 第二のテキストは申命記11:13-17である。ここでは報いと罰が強調されている。

「もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野の草を生えさせる。あなたは食べて満足する。あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに減び去る。」

 もう一箇所、申命記28:1-12は、聖なる者となるように、という義務が強調されている。1節と2節、そして9節と10節を引用する。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。」

 「もし、あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道に従って歩むならば、主はお誓いになったとおり、あなたを聖なる民とされる。地上のすべての民は、あなたに主の御名が付けられるのを見て、あなたに畏れを抱く」。

以上の三つの聖句は、シェマーといわれるシナゴーグ礼拝の最初の部分であった。

(b)シナゴーグ礼拝の第二番目の部分は、祈りから成っているが、この祈りも三つの部分に分かれている。その最初の祈りの部分は神への讃美である。詩編を見るとその神への讃美の言葉が多く見られる。シナゴーグ礼拝の祈りの二番目の部分は嘆願である。その嘆願の内容もはっきりしている。知恵と理解する力、そして罪の赦しを求める。それから聖書を学んで理解する能力を求める。そして迫害や飢饉や病気から救われることを願う。また、健康が支えられ、生活が支えられるように願う。そして最後にメシヤが与えられるように祈る。そういう嘆願の祈りが含まれていた。シナゴーグ礼拝の祈りの第三番目の最後の部分は神への感謝、そして平和を求める祈りであった。

(c)シナゴーグ礼拝の三番目の内容は聖書である。礼拝の中で御言葉を朗読した。それがもちろん、イスラエルの伝統、イスラエルの神との関係の基礎的なものとして、毎回毎回旧約聖書を読むということであった。

 また、ここで一人一人のユダヤ人には聖書を学び、また聖書の教えを伝え、次の世代に信仰を継承させるという責任があることが強調されていた。「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」とある(申命記6:7)

 ここで注目すべきことの一つは、イスラエルでは庶民が信仰を理解することができる、信仰の内容を確かに捉えることができるという考えであった。当時の、つまり古代世界においては、これは新しい、革命的な考え方であった。周囲の他の宗教では、信仰の内容、教えなどを知っていたのは、祭司だけであった。しかしこのシナゴーグの礼拝で見られるように、ユダヤ教の場合は違っていた。その内容が公に述べられていて、そして一人一人の信者にはそれを学び、それを家族に教え、また周りの人に、身近な人に伝えて教えるということが義務付けられていたのである。シナゴーグの礼拝の中で聖書の言葉が読まれ、そして礼拝する人の言語にあわせて、必要に応じてヘブル語か、あるいは70人訳のギリシャ語から聖書が訳された。説教者、説教できる人が出席していた時に、説教してもらい、その聖書の箇所が解釈され、皆の生活への適用がなされたのである。説教することによって、その神学的、また倫理的訓戒が行われて、その中でまた慰めと希望が与えられたと記されている。

 これで、キリスト教礼拝のルーツがこのシナゴーグ礼拝にあることが分かる。神への讃美、信仰の再確認、告白、具体的な祈り、そして御言葉を読んで、それに対する解釈、説明、適用という説教が宣べられるということは、そのままキリスト教礼拝に受け継がれた。シナゴーグ礼拝の場合はユダヤ人以外の人たちも歓迎されていたのである。様々な記録によれば、一神教の信仰に惹かれて、その礼拝に参加するようになった人が多いと伝えられている。しかしユダヤ人でない参加者には二種類あった。それは、改宗する人、つまり割礼を受けてユダヤ人になった人と、新約聖書の言葉でいえば、「神を畏れる人」つまり、信じているけれども正式に改宗しない、求道者のような人たちがいた。

 私はシナゴーグについて検討することによって考えさせられた。日本の多くの教会はシナゴーグによく似ていると思う。つまりその礼拝の中で確かに神を賛美する、信仰を再確認する、信仰を告白する、そして真剣に祈りを捧げる。また御言葉に焦点がある。そしてまたシナゴーグと同じように、教会員や求道者の信仰を養い、支えることにその礼拝の焦点がある。しかし同時に、私たちの礼拝のことを検討して、考えさせられる点もある。つまり、私たちは本当に普通の人、平凡な人、庶民が信仰を理解して信じることができることを、本気になって信じているだろうか。その点で問われているように思われる。そしてもう一つ、今の私たちの教会では、私たちが本当に両親がその子供にその信仰を伝える責任、その信仰を次の世代に継承させるというその責任を十分に受け止めているだろうか。この点も考えさせられる。教会員が教会の礼拝に参加して、信仰が養われることだけではなくて、信者たちがその信仰を教えることができるように、その信仰を他の人たちに伝えることができるように養われているだろうか、と問われているように思う。

 すでに指摘したもう一つの特徴であるが、会員でない人、ユダヤ人以外の人もシナゴーグで歓迎されていた。我々の教会でも、教会員でない人、新来会者、求道者を歓迎することは確かである。しかし同時に、本当に普通の人が我々の信仰を捉え、それを受け入れることができることを信じているだろうかと問われている。もう一つは、我々の礼拝と我々の伝道使命との間に一貫性があるだろうかと問われているように思う。

四、ユダヤ教の祭り

 もう一つの旧約聖書に関するところを指摘する。それはユダヤ教で強調されていた祭りである。イスラエルでは神の民の救いの業を、その歴史を教える手段として、三大祝祭が用いられていた。つまり、過ぎ越しの祭り、七週祭の祭り(ペンテコステ)、そして仮庵祭という三大祝祭がある。ご存知のように、過ぎ越しの祭りとペンテコステの方は、初代教会の礼拝においても重要な意味をもつようになった。初期のキリスト者が過ぎ越しの祭りを見て、それを、出エジプトにおいて神がイスラエルを解放したという歴史を思い起こさせるこの祭りから、キリストの働きを連想したのである。そして、イエス・キリストを、犠牲となる小羊と解釈した。更に、ペンテコステの方は、喜びと感謝の祭りであった。これは初代キリスト者にとっては、聖霊が与えられること、また教会の誕生を思い起こす祭りとして残したのである。

 このように、シナイ山の出来事も、神殿の儀式も、シナゴーグの運動も、そしてユダヤ教の祭りも全てがキリスト教の礼拝の基礎となったのである。

B.新約聖書時代における変化

 新約聖書の礼拝のことを更に深く検討したい。旧約聖書と新約聖書の礼拝には、もちろん、根本的な違いもある。それは、異なる歴史的な出来事との関連で、礼拝の内容とその意味が変わってきた。

 旧約聖書の礼拝のルーツは言うまでもなく、出エジプトに関わる出来事が中心である。また、選ばれた民族、契約、律法、神殿の儀式、そして限定された祭司族はその信仰の代表的な概念と特徴になった。旧約聖書の礼拝において、神を体験する、神との関係を味わう儀式が用意されたのである。そしてその中で、神の赦しを味わうこともできた。さらに、旧約聖書の礼拝はメシア到来の前触れでもあった。

 新約聖書の礼拝は、神の子、受肉された神の子イエス・キリストの誕生と生涯と十字架の死と復活という出来事を中心としたものがルーツにある。キリストの出来事が旧約聖書の内容を、その礼拝を成就した、それに取って代わるような形にもなった。

一、神殿の役割の成就

 神殿の役割は主イエス・キリストによって成就されたのである。マルコ14:5815:29-30,38では、主イエスについて言われたことが記録されている。

「この男が、『私は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建てて見せる』と言うのを私たちは聞きました。」

そして、

「そこを通りかった人々は、頭を降りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて白分を救ってみろ。』そして、一すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。

それからヨハネ2:19-21には主イエス御自身の証言がある。

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」

二、キリストの体なる教会は神殿の代わり

 さらに、キリストの体と言われている教会が、神の神殿になるのである。教会こそは神の臨在する場所と言われるのである。それが使徒パウロの言葉に示されている。

「あなたがたは、白分が神の神殿であり、神の霊が白分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊すものがいれば、神はその人を減ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Iコリ三:16-17)

「わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』」(Uコリ六:16)

また、エフェソ書二:19-22には次のように記されている。

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御白身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

三、キリストの出来事が中心

 キリスト教の礼拝においては、キリストの出来事こそが中心である。それゆえ、礼拝は、安息日の土曜日の礼拝から、主の日の日曜日の礼拝、すなわち、主イエス・キリストの復活の祝いの日に変わった。主イエスの神殿やシナゴーグやユダヤ教の祭りとの関係を見ると、主イエス御白身が旧約聖書の礼拝を指示したということが分かる。しかし同時に、主イエスはその旧約聖書時代の儀式などを、自分を指し示すものとして理解していたことも聖書から読み取れる。神殿について主イエスが大きな意味のある主張をしている。例えば、マタイ12:6,8

「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。…人の子は安息日の主なのである」。

主イエスの受肉と、そして究極の自己犠牲は神殿の犠牲を不必要なものにした。

 しかし、主イエスはシナゴーグやユダヤ教の祭りの終わり、それが不必要であるようには述べなかった。その代わり主イエスは、旧約聖書のテキストを適用して、そのシナゴーグの礼拝が自分を指していることを示している。有名なナザレのシナゴーグでの出来事がそれを物語っている。

「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4:21)。

また、ルカ24:25-27

「そこで、イエスは言われた。『ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

 同じように主イエスは、祭りにも新しい意味を与えられた。マタイ26:26,28において、主イエスは言われた。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

また、

「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

そうおっしゃることによって、主イエスが過ぎ越しの祭りの終末的な意味を成就して、その儀式に新しい意味を加えた。このようにして、主イエスは旧約聖書の示すユダヤ教の礼拝を、再解釈する権威があることを主張しておられる。こうして主イエスは強い自己主張をしておられる。人間の歴史の中での神の啓示における御自分の場、御自分の主権を主張しておられる。そうしたことにより、主イエスはキリストの体なる教会の礼拝改革の道を備えたのである。

 徐々に初代教会は旧約聖書の礼拝のそれぞれの面を成就するイエス・キリストを中心とした礼拝を展開して行った。確かに新約聖書の礼拝は、キリストの出来事、罪と死からその民を贖う神の御業を中心とした礼拝となったのである。それ以来、この二千年もの間、確かに諸教会の礼拝、そのリタージーにおいては、バラエティはあった。しかし、キリストの出来事、十字架と復活が今に至って、その礼拝の中心である。それゆえ、キリスト教の礼拝は基本的に祝いである。キリストによって神がなさったことを宣べて、それをcelebrationとして祝っているのである。

C.新約聖書の礼拝と教会の使命

 それでは、新約聖書の礼拝と、新約聖書時代以来の教会の伝道使命の関係に触れることにする。以前にはイスラエルの旧約聖書礼拝とその使命はcentripetal、つまり求心的である、と指摘した。と言うのは、人々がその中心エルサレムに惹かれて、招かれていることを特徴としていた。注目すべきことには、新約聖書はこれに対する正反対の視点、見解を示している。その求心的考えに取って代わって、centrifugal、つまり遠心的な考えが表されている。と言うのは、その動きは中心から外へ、という方向性が現れている。従って、教会の使命の特徴は出て行くところにある。神の救いを広める、そのキリストの道を伝える、キリストの伝道の使命に参与する、ということが強調されている。マタイ28:18-19には、「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」とある。つまり、教会の伝道使命の根拠はキリストの権威にある。

 そして、すべての全世界の人類の救いが委ねられているイエス・キリストの権威があって、権威あるイエス・キリストがわたしたちを遣わすのである。ヨハネ20:21には、「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」とある。父なる神が子なる神キリストをこの世にお遣わしになった。そのように、キリストがわたしたちをこの世に遣わすということである。

 わたしたちの伝道の使命というのは、キリストの和解の働きを、その務めを継続することである。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒一:8)

ここでは、命令よりも約束が強調されている。キリストの体なる教会には、聖霊が与えられる、つまり神の力が約束されている。その上で、証人となる。キリストの体なる教会、キリスト者が証人になると約束されている。キリスト教の礼拝は、この世に対する神の救いの業を祝うものである。わたしたちは礼拝と福音宣教、伝道の使命を分けることはできない。主の晩餐の御言葉にもはっきり示されている。主の晩餐は我々の礼拝の頂点と言っても過言ではない。それに関してパウロが、第一コリント11:26で言っていることに注目すべきである。

「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

 従って、旧約聖書では、イスラエルの礼拝とイスラエルの使命は一貫して求心的に解釈されていると同様に、新約聖書では、この二つ、つまり礼拝と伝道の使命は、一貫して遠心的に見傲されているのである。

U.中世以降の礼拝と伝道

A.暗黒時代に礼拝も伝道も変えられた

 後の教会史における礼拝と伝道の関係に対する考察をする。暗黒時代、ヨーロッパの中世時代の間は、教会の礼拝も伝道も随分変わった。この時代の間は、徐々に会衆がどちらかというと傍観者になって行った。つまり、会衆はただ、司祭のミサにおける行動を観察する立場になってしまった。会衆には讃美を歌うことも、礼拝の中で皆と一緒に祈ることも、奪い取られて、全てそれが司祭の、専門家の領域になったのである。信徒たちは聖書を指導無しに読むことすら、許されなくなった。

 また暗黒時代の間、次第に教会と政治が混同して、その間の勢力争いが目立つようになった。そして、ヨーロッパでは教会が最高の金持ち、地主になった。具体的に言えば、その時代には教会がヨーロッパ全体の四分の一の土地の地主になった。ローマ・カトリック教会の世界宣教活動が、この時代の終わりの頃、確かに始められたのだが、それも、植民地主義との関連があってのことだった。教会の堕落のために、当然ながら宗教改革が必要であった。

B.宗教改革による変化

 十六世紀の宗教改革は、どちらかというと、礼拝と信仰理解の改革や再確認から始まっている。このプロテスタント教会は、特に最初の頃、ローマ・カトリック教会の権力と反宗教改革運動に悩まされ、存続すら困難であった。その戦いの中で、本当の教会には何が必要であるか、ということを明確にしようとしていた。必然的に、十六世紀の改革運動は対ローマ・カトリック教会の姿勢になった。礼拝の改革という面においては、確かに宗教改革によって新約聖書と古代教会の礼拝の多くの内容と意味を取り戻すことができた。しかしどちらかというと、当分の間この宗教改革運動は福音主義信仰を教会の中で養うことだけで、手一杯であったように思われる。

 プロテスタント教会において強調されるようになった教会の「しるし」というものは、御言葉が忠実に宣べ伝えられるところ、聖礼典が正しく執行されるところ、そして戒規が守られるところであり、そこに真の教会があると強調されたのである。教会を清めることが必要であったために、こういう結果になったのはやむを得ないと思われる。けれども、考えてみれば、この三つの「しるし」は皆、受け身という形をもっている。しかし、それは新しいプロテスタント教会が直面していた現実問題を物語っている。つまり、当時のほとんどの教会員は名前だけのクリスチャンであった。したがって、宗教改革時代の最初の戦いは、まず教会に繋がっているその人たちの中で、自覚的、本当の信仰を養うことであったと思われる。

C.世界宣教運動の始まり

 ローマ・カトリック教会は、暗黒時代の終わり頃から、スペインとポルトガルの貿易や植民地の制度、政策を利用して、南北アメリカ、インド、フィリピン、そして東南アジアに布教活動で進展することができた。新しいヨーロッパのプロテスタント教会はそのような繋がりも可能性もなかったことは事実である。いろいろな資料を見て分かることは、宗教改革者はノン・クリスチャン、すなわち非キリスト者に対する福音宣教、伝道活動のことにほとんど触れていない。世界宣教論をもっていなかったことは事実である。しかし言えることは、彼らが御言葉によって神の導きを求め、新しくなる教会を用意したのである。

 十七世紀になって、最初のノン・クリスチャンに対する伝道活動の幻が、プロテスタント教会においても展開し始められた。そして十八世紀、十九世紀にはプロテスタント伝道が世界宣教に積極的に入ることになって行った特に十九世紀の中ごろから、その世界宣教活動が広まって行った。ご承知のように、今やキリスト教は全世界に広まっている。この一五〇年の間は、世界宣教に取り組んでいる教会はずっと三自原則という一つの原理に従って働いて来た。つまり、世界宣教の基本的な目的の一つは教会を設立することであった。その教会には三自原則を適用した。自政、自営、自伝の教会に育てたいという目標をもっていた。これは自ら治める、自ら支える、また自ら伝道する教会ということである。

D.日本の教会の礼拝と伝道使命の関係

 日本の教会は確かに自主性と自営の面では成長したと言える。しかし、自伝の方はもっと困難であった。そして、確かにわたしたちの伝道のコンテキストは、非常に大きな挑戦のあるコンテキストである。

 しかし、それでも考えていただきたいところがある。言葉遣いに少し無理を感じさせるかも知れないが、現代の教会には一種の分裂症があるように思われる。つまり、ここで論じてきた教会の礼拝と教会の伝道使命との関連で、今の教会に異常な分離がある場合が多いように思える。そこに一種の分裂症が見られるように思われる。我々の教会の礼拝は、どちらかというと、急進的(centripetal)であり、また、我々の伝道使命に対する理解は遠心的(centrifugal)である。そういう意味で分裂症になるのではないか。無意識の内に、礼拝は、昔のシナゴーグのように、教会の会衆のためのものであると感じられているようだ。そして同時に、伝道をすることが大切であると、誰もが感じている。しかし、伝道の使命は教会外の人に関わる問題と見傲され、礼拝の意味と切り離して考える傾向がある。

 礼拝のことはよく語られる。特に礼拝の充実ということが、繰り返しこの数十年の間、聞かされてきた。どういう意味で礼拝の充実と言っているのだろうか。クリスチャンが礼拝を真剣に受け止めること、つまり礼拝を厳粛なものとして忠実に守るということだけを考えているのだろうか。それとも、礼拝を改善することを考えているのだろうか。リタージーの改善が必要と思われる教会はあるかも知れない。しかし、多くの教会の牧師たちや信徒の方々と係っていて、また多くの教会の特質を見て、どちらかと言えば、多くのクリスチャンが礼拝の説教を聞きに来ているように思わされる。そして御言葉によって自分の、個人の信仰が支えられることを求めているのである。それはもちろん大切な、素晴らしいことであるが、どちらかと言うと、我々の礼拝は自分中心になりがちなのではないだろうか。あるいは少なくとも、自分たちの会衆中心になっているのではないか。

 多くの教会を巡り歩いて、その礼拝、あるいはその祈祷会の祈りを聞いていると、それが内側に向いている傾向が強いように聞こえる。我々は伝道が遠心的であるということを信じている。外に向かって伝道することが必要であると感じている。しかし一方の礼拝ともう一方の伝道の使命の間には、十分な一貫性があるのだろうか。焦点の一致があるのだろうか、と問われている。教会は、つまり礼拝共同体は何のために存在しているか、と問われている。

V.礼拝共同体の存在理由

A.新約聖書による教会の役割

 新約聖書は、どちらかというと、教会が運動共同体であり、行動のために存在しているように語られている。教会はこの世においてはイエス.キリストの代理である。イエス・キリストを代表して行動するものであることが描かれている。この世において教会はイエス・キリストの働きを継続する存在であると記されている。そしてイエス・キリストの忠実な弟子として主体性をもって行動するようにと勧められている。ギリシャ語では、教会のことを表すのに一番よく使われている表現はエクレシアという。エクレシアとは、呼び出された者という意味である。わたしたちは呼び出された者である。しかしわたしたちが呼び出された者であるというときには、それはすべてのキリスト者を意味する。

 新約聖書によれば、教会はある目的のために神によって呼び集められた群れ、一つの行動共同体である。第一ぺトロ2:9で、その目的が明らかにされている。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためです。」

 我々の証言の使信は自分たちの考えの勧めではなく、自分たちの功績の白慢でもない。だから遠慮することはない。その証言はイエス・キリストによって、神がわたしたちの中で、わたしたちのために、この世の中で、この世のためになさったことの証言である。教会はこの世において、共々にこの宣教の業に励むものとして、存在している。共々に神の愛に、神の恵みに応える、その応答をして生きると考えられている。そして新約聖書が、教会はこの世に出かけて行って、行動的な証人としてキリストの名によって証をし、奉仕をするものであると示されている。

 ペトロは、教会は選ばれた民だと言う。旧約聖書のユダヤ人たちは、白分たちが選ばれた民族であることを強調した。しかしここでは旧約と新約の違いがある。同じ「選ばれた」と言っても、違いがある。確かにユダヤ人たちは、神が自分たちを通して諸民族に祝福を与えるということを信じていた。しかし人々が自分たちのところに来ることを待つという姿勢であった。神の民としての生き様でもって、証をするということであった。光を、真の神を求めて来る者を受け入れる、来た者を歓迎するといった程度の伝道理解に留まっていた。しかし、新約聖書によると、教会はキリストのために、キリストの権威でもって、キリストが伴う力でもって、派遣されている、行くように励まされている。そして、このように派遣されているのは、牧師や伝道師だけではなく、すべてのクリスチャンである。

 ペトロは、教会は祭司の国だと言っている。祭司は礼拝を捧げる者であり、また仲介者であった。わたしたちキリスト者は、もう祭司を必要としていない。わたしたちクリスチャン皆が祭司である。わたしたちが共々に礼拝を棒げ、その礼拝を通して、また礼拝から出て行って仕えるときに、すでに仲介者として、この世と神との間の橋渡しの役割を果たすべきである。わたしたちが自分たちだけのためではなく、この世のために祈る、この世のためにイエス・キリストの福音を語る、そういう積極的な使命が与えられているのである。

 ペトロは、教会を聖なる国民だと言っている。「聖なる」ということは聖別されているということである。わたしたちがこの世においてキリストの働きを継続するために、聖別されているというのである。そしてペトロは教会は神御白身の民である、わたしたちは主イエス・キリストに属している、与っている。だからイエス・キリストのこの世に対する目的は、わたしたちの目的になる。ただただ、大きな重荷が負わされているということではなくて、イエス・キリストが最後まで一緒に歩む、一緒に働く、という約束を表している。

 わたしたちはイエス・キリストの教会であり、全世界に及ぶ交わりである。わたしたちはエクレシアであり、呼び出された者、また呼び集められた者である。マタイ28:18,20ではその意味するところが明瞭に語られている。「天と地の一切の権能」が十字架と復活のイエス・キリストに授けられた。そしてまた、イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された。この権威をもとにして、こういう約束を力にして、教会はこの世に遣わされているのである。わたしたちがイエス・キリストのために、イエス・キリストに代わって、行って、語って、行動するように遣わされている。

B.真のキリスト教礼拝と伝道

 本当の礼拝は内側に向いているはずがない。礼拝を捧げる個人、または礼拝するその群れ自体にその礼拝の焦点があるはずはない。真の礼拝においては、わたしたちが神に礼拝を捧げ、神が見えるようになると同時に、神のこの世に対する御心が見えて来るはずである。礼拝において、わたしたちはこの世におけるキリスト者として、教会の使命に呼び戻されるはずである。礼拝において、わたしたちは弟子たる立場を再確認するように、呼び出されている。この世は神から離れている。神の御言葉に聴こうとしていない。神の救いの御業を見ようともしていない。しかし、この世においてわたしたちが語り続ける、働き続けるようにと、礼拝の中で励まされるはずである。それこそが礼拝の大きな役割の一つではないだろうか。キリスト教礼拝は個人的な信仰の再確認に止まってはならない。礼拝によって、わたしたちの信仰、希望、わたしたちの勇気が新たにされ、そして伝道の使命が明らかにされ、礼拝の場から派遣されるはずである。

C.教会における牧師の役割

 伝道者、牧会者、牧師の教会の会衆との関係をどのように理解すべきであろうか・指導する者とそれに従う者というように、わたしたちは見ているのであろうか。牧師が伝道をして、そして教会はその結果として生まれ、また養われる、と私たちは見ているのであろうか。また、礼拝における牧師の役割をどのように見ているのであろうか。それは、御言葉と聖礼典によって、ただ単に一つの群れを養うということだけなのであろうか。それとも、伝道に励む会衆を、働くキリストの体の一つの肢体として教会を養って、それを伝道に派遣するという牧師の務めと見ているのであろうか。

 御参考までに、わたしの母教派の教憲教規の中で、アメリカ改革派教会の「牧師」の定義について、次のように書かれている(私訳)。

「教会の牧師の職務は会衆の牧会者、教師、また奉仕へと整えさせる者(enabler)として仕え、教会全体がこの世における伝道ができるようにそれを増強し、また準備(訓練)することである。牧会者、教師として、牧師は神の御言葉を説教し、また教え、聖礼典を執行し、会衆の役員や会員と一緒に、互いにクリスチャンとしての育成のための責任を共有し、長老と共にキリストの愛と訓練を実現し、そして教会生活において、すべてが適切に、また秩序よく行われるように注意を払う。(Enabler)奉仕へと整えさせる者として、牧師は会衆と共に主イエス・キリストに献身し、この世のために教会が仕えることができるように会衆の中で仕え、また生活する。」

D.力ール・バルトの教会派遣についての理解

 バルトが伝道派遣についてどのように考えていたかに触れることとする。『教会教義学』の中で、マタイ28:18-20について、興味深い解釈がある。残念ながら日本語の聖書の訳ではこのテキストのギリシャ語の文法を十分に言い表わしていないことが、これで分かる。バルトはこのテキストの注解で言う。

「弟子たちに対しイエスが与え給うた奉仕命令の統一性についての、第一の顕著な記録は・福音書においては、マタイ28:18-20のいわゆる伝道命令、あるいは洗礼命令である。十字架に付けられた方の甦りによって、彼らの眼前に示された、『わたしは天においても、地においても、一切の権威を授けられた』という前提の下に、弟子たちに対して、『すべての国民がイエスの弟子という、彼ら自身があるところの者となるように、彼らに奉仕せよ』という、ただ一つのことが命ぜられる。弟子たちは、彼らを、神のただ一つの民に所属するように、導かねばならない。すなわち、彼らを弟子としなければならない。それに付け加えて、分詞構文の形で、記されたことは第一のことに並ぶ第二のこと、第三のことではなくて、第一のことの二重の言い直しである。すなわち、弟子たちは彼らを父と子と聖霊の名によって、(従って、彼らが服従していると白覚する神の権威に訴えつつ)、回心へと、これまでの彼らの在り方を捨てて忘れるようにと、新しい発端へと、聖霊に対する希望と祈願の状態へと、二冒で言えば、洗礼へと招き、それを許すことによって、(バプティゾンテス)、『弟子とし』なければならない。

 「また弟子たちは、白分たち白身がイエスから教えられたことを、彼らが学ぶように指導することによって、彼らを『弟子とし』なければならない。イエス御白身の告知によって、白分たちに与えられた認識に、彼らを与らせなければならない(ディダスコンテス)。従って、『弟子とせよ…バプテスマを施すことによって…教えることによって』と言われる。しかし、一つであって、分割されない全体的なこの事実は、弟子たちがそのようなことをするときに、彼、イエスが彼らから遠い方ではなく、むしろ本来的、第一次的に語り、働く方として、世の終わりまで、彼らのロハ中にいますという事実に、目を注ぎつつ、またその事実に対する信頼において、起こることなのである。彼らの奉仕のあらゆる形において、イエスの甦りという前提の下に、また信仰し、継続する彼の現臨に目を注ぎつつ、またそれに対する信頼において、このことが問題の中心でなければならない。」

 主イエスからキリスト者は弟子を作る務めが委ねられている。我々の礼拝において、クリスチャンはただただ、個人的に養われているのだろうか。それともイエス・キリストの弟子をまた作るようにと養われているのだろうか。我々の礼拝も、我々の伝道も遠心的な方向性のあるものにすることができるのではないか。

結び 教会が直面している挑戦

 最後に、我々の教会の目標は、ただただ信者を作る、つまり信じる人を作る、ということなのだろうか。それとも、イエス・キリストの弟子を作ることが目標なのかが、問われている。この二つを比喩的に対比してみることにする。

 信者はパンと魚を待つ。
  弟子は漁師になる。

 信者は何とかして成長しようとする。
  弟子は、自分と同じ弟子を作ることによって成長する。

 信者は福音を聞いて救われた者である。
  弟子は遣わされることによって、形成されつつある。

 信者は聞いてもらいたい、認めてもらいたい。
  弟子はイエス・キリストが聞かれることを望む、
  イエス・キリストが認められることを望む。

 信者は自分の財産、自分の収入の一部分を捧げる。
  弟子は全生活を献げる。

 信者は一つの奉仕が与えられるのを待つ。
  弟子は自ら進んで責任を負おうとする、仕える道を求める。

 信者は不平、不満室言って自己の権利を主張する。
  弟子は従う、そしてあらゆる自己主張を放棄する。

 信者は状況によって影響される。
  弟子は状況を生かして、状況が変わるように運ぶ。

 信者は理想的な教会が生まれることを夢見る。
  弟子は教会を形成する参加者になる。

 信者は天国に入ることを目標とする。
  弟子は他の人が天国に入ることを目標とする。

 信者は自分の寿命を計って生活する。
  弟子は永遠を目標にして生きる。

 我々一人一人や我々の教会の目的は何であろうか。伝道活動に励んで信者を得ることか、それともイエス・キリストの弟子を作ることか、が問われている。我々の礼拝と伝道使命に一貫性があるだろうか。我々の礼拝と伝道使命に、両方ともに遠心力があるだろうか。我々の教会の会員が、礼拝において養われ、キリストの弟子として派遣されるようになっているだろうか。それこそが問われていることである。

(元東京神学大学教授)


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