良い情報の発信基地としての教会

芳賀 力

他人指向型の人間たち

 私たちのまわりで日々急速に押し進められている情報化という社会システムの変動は、単なる外面的な社会現象ではなく、人間存在のあり方にも多大な影響を及ぼす内面的な出来事である。私たちはまずこの変化を人類の精神史的な流れの中で正確に把握しておく必要がある。その意味でD・リースマンが『孤独な群衆』(David Rieseman, The Lonely Crowd, 1961)において提示した鋭い杜会心理学的な分析は、今なお熟考に値する。

 リースマンは人間の社会的性格を考える上で時期を画する重要な変革となったものとして、二つの精神革命を挙げる。第一の革命とは、ルネッサンスと宗教改革に始まり、産業革命、そして19世紀に至るまで続けられた様々な政治革命である。それは、人類の大部分の歴史を占めてきた家族、氏族といった集団中心の生活から個人中心の生活へと移行していく大きな変動である。世界中を見渡すとなお進行中の地域もあるが、先進国においてこの第一の革命は終わりを告げ、もう一つの新しい種類の革命が登場しつつある。それは生産の時代から消費の時代への移行である。しかしこの第二の革命はまだ始まったばかりで、多くの識者が関心を寄せてはいるものの、まだ全体像をつかめてはいない。多くの人々は、いまだに第一革命の方に心を奪われていて、第二革命については、その議論のためのカテゴリーをさえ作ってはいをい現状にある。しかし実際に私たちはこの第二の革命によって最も深く影響を受けているのである。

精神革命以前人口の高度成長潜在期(a):第一次産業 伝統指向型(血縁・地縁集団への帰属)
第一の革命(中世から近代へ) 人口の過度的成長期(b):第二次産業 内部指向型(個の自立)……ジャイロスコープ(羅針盤)
第二の革命(現代) 人口の初期的減退期(C):第三次産業 他人指向型(大衆の中の個人主義)……レーダー

 この二つの革命によって画された三つの時期、すなわち、第一の革命よりも前の中世、それ以後の近代、そして第二の革命が起こりつつある現代は、人口統計学の区分に従えば、高度成長潜在期(a)、過度的成長期(b)、初期的減退期(c)に当てはまる。人口の高度成長潜在期(a)においては、出生率と死亡率がほぼ等しく、寿命は短く、世代交替のスピードが速い。農業や漁業を中心とする第一次産業が生活を支えており、社会の変化は緩慢で、家族や血縁集団への依存度が高い。このような社会の中で同調して生きていくために必要な<私>の社会的性格は、おのずから伝統指向型(tradishion-directed types)となる。

 しかし第一の革命は技術の改良による食料生産の増大、保健衛生の改善により、大幅な人口増加につながり、人類は過度的成長期(b)を迎えることになる。工業を主とする第二次産業が中心となり、社会は分業化し、流動的になり、移動と選択の余地は広がり、伝統に依存せずに個人が社会的に生きてゆけるようになる。このような社会での人問のあり方をリースマンは内部指向型(inner-directed types)と規定する。個人の方向づけが自己の内部でなされるからである。幼児期に植え付けられた目標が心理的なジャイロスコープ(羅針盤)となって個人の内面で作用し、その明確な目標の実現(白己実現)に向かって努力する合理的個人主義の<私>が生まれる。

 とはいえこの成長期はどこまでも無限に上昇していくわけではない。寿命が延びる代わりに出生率が下がり、中年あるいは老年者の占める割合が多くなって、人口の初期的減退期(C)を迎える。この時期の主流産業は、商業、サーヴィス業、メディア産業などで、直接に白然や物と関わる生産業というよりは、もっぱら他人を相手にする第三次産業となる。ここに至って他人指向型(other-directed types)の<私>が社会的性格として登場する。個人は明確な目標や確固とした判断規準を自分白身の内側に持っているわけではない。個人を方向づけるものは同時代人の意見であり、<私>の生き方を決定するのは他人の動向である。変化が急速なこの社会にあっては、自己の内部に設定されたジャイロスコープは役に立たない。必要な心理装置はむしろ、いち早くまわりの情報を集め、同時代人が何を考え、行動しようとしているのか、その動向を探るレーダーである。そしてまさにそれが情報化時代を生きる人間たちなのである(リースマン『孤独な群衆』加藤秀俊訳、みすず書房、一九六四年、三―二〇頁)。現在の情報化時代を眺める時、このリースマンの預言がますます現実味を帯びてきているように見えることに、大きな驚きを隠せない。

情報過多時代における情報の貧しさ

 この第二の革命が進行する速度は私たちのまわりで、近年とみに加速してきているように思われる。社会に情報が即座に蔓延し、それがまるで「紙吹雪」(ドネリー)のように舞っている状況は、情報が少なく、いつもゆっくりとしか広まらない時代に比べて、当然情報量が豊富であるように見えるが、実はそうではない。過剰なまでの情報量の氾濫はかえって<私>にとって本当に必要な情報を覆い隠す結果となり、皮肉なことにそれは、情報量が少なかった時よりも情報の質が劣化してしまうのである。インターネットで個人が自由にホームページを開設して情報を発信する時代にあっては、無意味で雑多な個人情報が過度に出回り、肝心の重要な情報になかなかたどり着けないということが起こる。情報の洪水は騒音(ノイズ)にしかならず、適切な取捨選択ができない間に混乱に陥るか、外界に対する心理的な無関心を生み出すことにもなりかねないことが指摘されている(守弘仁志他著『情報化の中の<私>』福村出版、一九九八年、51頁、70頁)。また取捨選択がなされたとしても、それが白己流である場合には、情報によって将来が見通せたかのように錯覚し、その既視感の延長上にはつまらない<私>しか見えないということになる(26頁)。それ以前には共同体を通して、その取捨選択をする際の準拠枠が共同主観的に与えられていたのだが、情報の海の中に個が投げ出されている状況では、それを持つことができないのである。

消費的人間と「画一的」個性化

 個の自由とプライバシー尊重という錦の御旗の下で、個々人はそれぞれの嗜好に基づいて勝手にリアリティーを追求し始める。多様な情報の飛び交う中、リアリティーは拡散し、多元化する。公共的な価値の追求よりは個人の欲望に身を任せ、民主主義はミーイズムの権利主張を正当化するイデオロギーへと変質する。他人指向型とはいえ、その他人とは不特定多数の世間であり、マスコミの作り出すトレンドであって、リアルな意味での他者は消失している。実際の他者には不関与、不干渉の姿勢が基本的となる。「他人は他人、自分は自分」であり、意見を求められても「別に〜」と答え、明確な態度表明を回避する。断定的な表現をする場合にも、語尾のトーンを上げ、語調を弱める独特の「半疑問形」が使われ、発言者の責任が巧妙にぼかされる。倫理的規範も相対化され、守るのは人の自由であるが守らなくてもよい、いくつかあるルールの一つにすぎなくなる。

 このような状況にあって肝心の<私>の存在もまた不安定なままである。他人指向型の人間が依存している社会は消費社会であり、いつも市場の原理によって動かされている。その中で自己であろうとする人間は、その<私>探しをまさにこの<消費>という営みの中で行い、マーケットにおいて個性化を図ろうとする。多様に林立したブランド品の中から好みに合ったものを選び、それで人並みのレベル(ダサイ奴ら)から抜け出してお墨付きの個性を主張しようとする。しかしそれもマクロ的視点から見れば、販売情報管理システム(POS [point of sales] )によって管理されている「画一的な」個性にすぎないのである。

良い情報とは

 情報には二種類のものがある。一つは技術的な知識を伝達する没価値的な情報である。もう一つは意味論的な価値のある情報であり、人間の生き方に関与し、社会的性格を形成するような情報である(今井賢一『情報ネットワーク社会』岩波書店、一九八四年、42-46頁)。こうした意味論的な情報は共同主観的に成立し、伝達されるものであり、共同体の伝統とその語りとに深く関わっている。いや共同体の語り(ナラティヴ)とはこの意味論的な語りであると言ってもよい。そしてここに、悪い情報と良い情報との区別が生じる理由がある。技術的な情報であれば、問違った情報か正しい情報かのいずれかである。しかし人問の生き方に関わる意味論的な情報には、伝えられる内容は間違っていないかもしれないが、その解釈が良くない、すなわち悪い情報というものがありうるのであり、それに対して良い情報を提供することが、良い社会を形成し、維持していくことに欠かせないのである。そしてまさにこの点にキリスト教ジャーナリズムの使命と意義があると考える。

 情報過多の時代に、本当に必要な良い情報をどこが提供するのだろうか。良い情報には、良き生き方の選択肢が含まれている。そして、そのような情報をきちんと受け止めることのできる性格を育成し、レーダー(アンテナ)の感度を上げ、超越的な場所から到来する意味論的メッセージをも捕らえることができるようにすることもまた、情報化時代に置かれた教会共同体に託されている使命なのである。

(日本基督教団東村山教会牧師)


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