新しい皮袋に注ぐ新しい酒
WEB伝道のヴィジョンと指針

上木 正暁

 目的に関して議論の余地はない。唯、主の名を述べ伝えるのみである。しかし、どのように? 今なお問いつづけているこの命題の現時点での回答例を記したい。サイト管理の同労者および予備軍の方々の参考となれば幸いである。


 訪れた教会サイトを見る度に疑問に思うことがある。「一体どんな読者を想定しているのだろうか」。ひょっとして、多くは「いままでキリスト教に触れたことのない、純朴な青年が、ふとこのサイトに立ち寄って、興味を持ち、素朴な疑問を解消して、実際に教会に訪ねてきてくれる」などという、夢のようなストーリーに酔って構成されているのではないか(確かにそういう想定も必要だが)。そうでもないと、どこでも同じような、平易だが掘り下げが浅く肝心の個別情報が含まれない、現実のニーズと乖離しているサイトばかり(失礼)な説明はつきにくい。

 インターネットの情報は、その気のない者の目に偶然留まることがあり得ないのだから、不特定多数の興味を惹起する、というポスターやチラシと同じ編集方針は意味が薄い。一般の目に触れるようにするなら、相当数のリンクを福音伝道とは無関係なサイトにも張り巡らす、有力ポータルに広告を出す、スパムをばらまくなどの策を講じる必要がある。しかし、現実は地域情報サイトに参加しているのがせいぜいであろう。

 では読者はどこから現れるか。それは、ディレクトリサービスのキリスト教カテゴリから教派別あるいは地域別欄を使うか、他の手段で教会の存在を知って名称で検索するか、コンテンツの中のキーワードでヒットしたか、そのどれかの手段で到達した他のキリスト教関連サイトからリンクを辿るか、である。なんにせよ、インターネットの性質上、来訪者は能動的に情報を求めてきた積極性を帯びており、もしそれが志道者なら、すでに相当の求道的意思を持ち、下見にきていると考えてよい。

 相手がキリスト者の場合は、もっと目的が明白である。コンテンツで学びにきているか教会運営の事例収集、また、旅先訪問・転会、遠方者への推薦、伝道協力などが可能か否かを探るため、その教会の内実を見極めにきている。

 どちらのケースを想定しても、大方の先入観に反して全てが平易である必要性があまりない一方、ありがちな教会案内パンフ程度の内容と分量では十分とはいえず、まして、教会堂所在地と礼拝開始時刻を掲示した通称「一枚看板」では到底事足りない。独自の詳細情報の公開こそ必要とされる。

 それでもまだ活動内容は記事にしやすいので、比較的多くのサイトで紹介している。しかし教理的な内容を直ちに把握できるコンテンツを整えているところはまだまだ少ないのが実情である。「今週の説教概要です」も「聖書研究会はじめました」も「教会学校あります」も結構だが、なにより我々は「日本基督教団」が今や残念ながらキリスト教界において「もっとも信用ならないブランド」であることを思い起こす必要がある。したがってコンテンツの隅々まで読んでも、その教会が立つ伝統と聖餐の保全が判らない教会サイトは、有り体にいって用を成していない。逆にそうではないとはっきりわかる場合は、その是非は措いても表明には大いに感謝したい(避けて通れるから)。その意味では、稀ではない「当教会は福音的信仰に立つ正統的プロテスタント教会であり…〜なグループとは関係ありません」的な断り書きは、志道者には意味不明、関係者にも用法不明で、誰にも何も判らない。


 教会サイトがどこも同じようになってしまう理由は他にもある。それは十字架の福音は一つだ、という喜ぶべき事柄である一方、伝道協力体制の不備という憂いるべき事態の表れでもある。各個教会各々がなにもかも独自に処理しようとして、そこかしこが一斉に一通りの解説を始めるため、コンテンツが被るのである。福音伝道の語り口などは信仰者の数だけ存在するのがある意味当然でもあり、受け手側の多様性をカバーするためにもそのバラエティを感謝するべきだが、用語解説や心得集、教団リンク集、信条・信仰告白などがあちこちばらばらに掲載されている様は、やはり信頼と連絡の不足を思わせる。

 どの道我々は、伝統において礼拝と聖礼典と交わりを欠いた信仰生活を是認しないにもかかわらず、情報とせいぜい不確かな交わりしか提供できないことを承知でネット伝道を始めてしまったのだから、物理的に訪問可能な各地の教会を紹介するリンクは、サイト構成要素として義務的不可欠といえる(これは掲載したリンク先には紹介者として責任を負うということも意味する)。ならばその延長で、もっと積極的に「この件に関してはどこそこの説明が秀逸」とばかり、他サイトのコンテンツに読者を誘導してもいい筈なのだ。それは消極的な手抜きや便乗ではなく積極的な一致表明であり、少なくともその分野が欠落しているより読者に親切なのは疑いない。さらにそれを推し進め、信頼に足る統合サイトに共通見解をおき、そこにリンクした上で自教会の特色に言及すれば、書く方も読むほうも負担が減り、各個教会の特色もむしろ際立つ。教団に過大な期待が出来ない以上、その役を担うものとしては教区・地域連長・協議会などが期待されよう(…たった今、己の首を絞めたような気がしなくもない…)。


 では、そうやって、一致コンテンツをシェアしてしまったら、各個教会サイトは一枚看板に戻ってよいのだろうか。そんなはずはない。そもそも現在のインターネットと情報機器では、書籍と同じ内容を掲載する限り、綴本の方が読みやすく携帯にも便利で安価、と全く歯が立たない。利点は情報の発信コストが安いことに尽きる。つまり採算性懸念から出版されにくい、在野の説教原稿や教会員による「信徒の生活」、「交わり」の具体的ナマ情報などの掲載にこそ利がある。ありきたりで使い古しの活動の報告に思えても、それを新鮮に感じて真似してみた他教会で成果があがるかもしれない。それこそが草の根伝道であり、世間一般に根強く存在する「外来宗教に対する漠然とした不安」を緩和する道であると信じる。

 さらに、読み上げソフトを用いれば点字出版物よりはるかに広く視覚障碍者のために用いられ得ることもインターネットの特長に数えられよう。そのためには普段からHTMLの可読性・バリアフリーなどに気を配る必要はあるが、留意しないと、美麗さや更新頻度、アクセス数などを競う事と同種の陥穽に落ちる。

 情報の新しさも見た目の美しさも、本来の情報・使信の価値とは無関係である。我々の伝えるべき情報は主の真理なのだから、劣化もしなければ過ぎ去りもしない。言うべきことさえ語ってしまえば更新頻度を気にする必要はない。

 文章の品位や格調を気にしすぎることも時として妨げになろう。青年伝道が急務であるなら、青年に伝わる書き方こそ相応しい。まして紙面無限のオンライン上では、同じ内容を複数世代に向けて、各々に最適の文面で掲載することも出来るのである。


 情報の価値は最終的に読者が決める、といわれる。しかしそれ以上に、主は送り手の思いや力を超えて大きく用いてくださる。それを信ずればこそ、恐れや迷いを越えて、奉仕が続けられるのである。

(鎌倉雪ノ下教会 長老)


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