東北改革長老教会協議会の歩みの中から

柏木英雄

 東北改革長老教会協議会は、今年、発足一〇周年を迎えた。折りしも今年六月の協議会において、今までの規約(長く規約案として来たものを昨年正式に規約として承認した)をさらに全面改正して、より現状に即した実質的な新しい規約が可決承認された。加入教会を明確にし(各教会長老会の承認を経て加入する)、各教会の代表(教職一名、長老一名)より成る「常務委員会」を中心とした教会的交わりを大切にする協議会活動を行っていくことが主旨である。これによって、私たちなりに改革長老教会の実質を深めていくことができれば、と願っている。この協議会の歩みの中で、私自身が考え求めていることを記して、皆様からのご教示を受けたいと思う。

 私たちの協議会活動の日指すところは、一言で言えば「まことの主の教会を立てる」こと。主キリストが真に霊的に支配する教会形成の実現を願っている。現実には教会は様々な人間的な力によって支配されがちである。「神」「信仰」の名をもって、いつのまにか人間的な力、権威が教会の中を支配する。そういう現実の中で、真に主キリストが霊的に支配する教会形成を実現していかなければならない。そのために、私たちは「長老制度」を採用する。主キリストの主権に服するという点で、責任を持つ長老(信徒と教職)たちによる共同の教会運営と言える。どのような状況の中でも正しくキリストの主権に服しつつ生きるということは、決して自明なことではなく、深く信仰的な訓練、信仰の成熟を必要とする(第一テモテ3章6節)。そのことを考える時、私たちは「長老制度」による教会運営が、主の教会を正しく保っていくための最良の制度であると信じている。その具体的な在り方は常に工夫を求められると思うが。

 ところで、主キリストの主権に服するとは、言い換えれば「主にある」歩みをするということである。しかし「主にある」ということ自体が、私たちにとって深く霊的な闘いを意味する。私たち自身の神の御前における「悔い改め」の真実が問われる。主キリストの救いに与って生きるべき私たちでありながら、容易にキリストの救いの御手に頼ろうとしない私たちの不従順、心の頑なさ、その点における私たちの弱さ、愚かさ、罪を私たちが自らの誠実さの限りをもって言い表す、その「悔い改め」の努力を、神が憐れみ受け入れてくださる間に、私たちは主キリストの霊的臨在の恵みを与えられ、その交わりの中に生きることが赦される。そのようにして、私たちは「主にある」救いの喜びに生きること ができるのである。つまり、「主にある」とは、神がお与えくださる恵みであるが、同時にそれは、神の御前における私たち罪人の悔い改めの真実が間われる神の「裁きと選び」の出来事でもあるのである。その点を私たちは大切にしなければならない。そして、この「主にある」キリストの恵みに生きるという点で、教会の中に理解の「相違」があるのではないかと思われる。主キリストの恵みに生きるための神の御前における私たちなりの誠実な「悔い改め」の努力を軽んじる傾向があるのではないだろうか。主キリストによる「救い」を「自明のこと」のように考えることによって。ここに、信仰の「質」の問題があるように思われるのである。

 カール・バルトは、教会教義学の序説(プロレゴメナ)の中で、神の「恵み」(啓示、信仰)の理解をめぐって、三つの信仰理解が歴史的に成り立つことを指摘している(ただ、バルトは、そのうちの前二者の信仰理解を、真に聖書的な信仰という点から考えて、言葉の厳密な意味で「異端」と見なすのであるが)。

 一つは、一六世紀宗教改革時代のローマ・カトリック教会の信仰理解、二つ目は、ヨーロッパ近代に入ってからの信仰理解(近代主義的信仰理解)、そして三つ目が、ルター、カルヴァンに代表される福音主義的、宗教改革的信仰理解。

 一番目のローマ・カトリツク教会の信仰理解によれば、神の「恵み」は、ひとたび与えられると、それは「教会」(ローマ・カトリック教会)の中に(人間的に)「保有される」と信じる。つまり、教会が、そして何より教会の中の教職制度が神の恵みを「所有する」ことができると考える(信じる!)。それによって、今や教会は、新しい神の恵みなしにも、すでに与えられている恵みによって生きることができるし、自ら神の恵みを人々に分け与えることができると信じる。ここから、カトリック教会の教理(伝承)が聖書と同等の(結局はそれ以上の)啓示的位置を占めるという考え方が生まれてくる。こうして「聖なる」教会、「聖なる」教職制度を信じる信仰、analogia entis(存在の類比)を信じる信仰が成り立つことになる。

 二番目の近代主義的信仰は、キリスト教的デカルト主義、人間中心主義的信仰といわれるもので、今日のヒューマニズム的信仰がこれに当たると考えられる。この信仰理解によれば、神の恵みは、信じる個々の人間(信仰者)の自我(自己)意識の中に「保有される」と信じる。そこから、「信じる」人間の信仰的主体性、信仰の「敬虔性」が重視される、自分の「信仰」(信仰的確信、信念)によって生きる人間中心主義的な信仰理解が成り立つ。自分の信仰深さ、敬虔性に頼り、またそれに満足する信仰となる。

 このような信仰理解の最大の間題は、そこからは真剣な罪認識が生まれて来ないということである。すでに神の恵みが「与えられている」故に、新しく神の恵みを乞い求める祈りの必然性が生まれて来ない。これが私たちプロテスタント教会の中で、否、改革長老教会の中でも重大な、隠れた間題ではないだろうか。神の御前における真剣な悔い改めの努力を回避させることになるという点で。

 三番目の、福音主義的、宗教改革約信仰の立場に立つ信仰理解は、神の恵みはいかなる意味においても人間(信仰者)の側に保有されることはない、というもの。神の恵みは、常にただ神の御手の中にあり、絶えず新しく神ご自身の御手から与えられなければならない。神は憐れみの御心に従って私たちに恵みを与えてくださるが、ご自身の恵みをいかなる意味においても人間の手に委ね渡されることはない(それは神からの悪しき自立を意味する!)。従って人間は、常に神の御前に何も持たない者(ルターのいわゆる「神の乞食」)として、ひとたび恵みを与えられた者も、そういう人間こそ、再び恵みが与えられることを信じて、いよいよ謙遜に新しい恵みを求めて神の御前にぬかずかなければならない。ただ、この信仰の霊的出来事の中で、人間は神と一つにされ、罪清められ、新しい命に生きる(聖化の)力を与えられる。こうしてanalogia fidei(信仰の類比)を信じる信仰が成り立つ。

 バルトは、この福音主義的信仰こそ真に聖書的信仰であるとして、この信仰理解に立って自らの教義学的認識を進めていくことをプロレゴメナにおいて明らかにしている。私たちが改革長老教会の歩みを進めていく上でも、このバルトの教えは極めて有益なものではないかと思うのである。

 このような視点から、一八九〇年の日本最初の改革教会の信仰告白を考える時、聖書的信仰が、簡潔にしかも、正確に述べられていると思う。その要点だけを取り上げれば、「おおよそ信仰によりてこれ(キリスト)と一体となれるものは赦されて義とせらる」とある。つまり、ここには、信仰とはキリストと「一体となる」ことであることが明言されている。信じる間に、主キリストが霊的に臨在されて、信じる者をご自身との霊的な交わりの中に入れてくださるということ。つまり、信じることがただ主観的な信仰(自分が信じる)に留まらず、主キリストとの霊的な交わり(一体となる)の実現にまで至らなければならないことが明示され、その出来事が与えられた時、初めて「赦されて義とされる」、即ち、主キリストの十字架と復活の恵みが私たちのものとなる、と語られているのである。

 この点で、現行の日本基督教団信仰告白は、唆昧さと信仰の観念化の危険が十分に防ぎ守られているとは言えないのではないか。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」の「ただキリストを信ずる信仰により」では、どのようにキリストを信じても良い(!)ことになり、信仰の「自由主義」(近代主義、観念化)を許すことになり得る。しかし、信仰は、主キリストと「一体となる」信仰でなければならず、それは、神の御前における信じる者の誠実な悔い改めの努力が神の憐れみと赦しの中で祝福される間に与えられるものである。そのような信仰者の、神の御前における誠実な悔い改めの努力が軽んじられるような信仰理解は、正しい教会形成に資するものと言うことはできない。そのことを考える時、一八九〇年の「信仰の告白」に示された「信仰」理解を堅持することが私たち改革長老教会の立場としてきわめて重要であると考えられる。

 正しい聖書的な信仰に立って、主の御心にかなう教会形成を行っていくことは白明のことではなく、その闘いが私たちの中に外にあることは羊の教会の昔も今も変わらない現実であると思うのである。

(仙台東一番丁教会牧師)


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