なぜ教会なのか

井ノ川 勝

なぜ教会なのか

 大木英夫著『組織神学序説―プロレゴーメナとしての聖書論―』は、「なぜキリスト教か」という問いかけから始まっています。日本において神学をし、教会形成をし、伝道をしていく上での根源的な問いは、「キリスト教とは何か」ではなく、「なぜキリスト教か」なのであると語ります。この根源的な間いは、「なぜ十字架に死んだイエスがキリストであるのか」という問いへと深まり、さらに「日本においてもキリスト教は妥当するか」という普遍妥当性の問いとなっていきます。私たちはこの根源的な問いから回避することはできないのです。そして大木先生は組織神学序説を「そこに聖書がある」という、聖書によって創り出された「近代的状況」、「プロテスタント的状況」に目を留めることから始めます。

 芳賀力先生がこの季刊『教会』において、『物語る教会教義学』を少しづつ執筆されています。その中で、神学序説(プロレゴーメナ)を、改革派教会の伝統である聖書論から始める意義を十分に踏まえながらも、その出発点を教会論から始めたいと語っています。神学の出発点を、「聖霊の注ぎの下に成立した礼拝共同体としての教会」に据える。それは神学の主体を、「聖霊を通して教会として実在するキリスト」(ボンヘッファー)に求めることであり、神学的営為を「キリストの体としての教会」の思惟として定立することであると語っています。熊野義孝著『基督教概論』の神学方法論を継承しているとも言えます。

 改革長老教会協議会の季刊誌には、『教会』という名称が付けられています。この季刊誌の表紙に書かれた『教会』という名称は、私たちに「なぜ教会なのか」と問いかけているのではないでしょうか。私たちが日本において、神学をし、教会形成をし、伝道をしていく上で、「なぜ教会なのか」という問いかけもまた、「なぜキリスト教なのか」という問いかけと並んで根源的な問いです。この根源的な問いは、「なぜ教会は受肉者のからだ、礫刑者のからだ、復活者のからだであるのか」という問いへと深まり、さらに「日本においても教会は形成されるのか」という普遍妥当性の問いとなっていきます。私たちは徹頭徹尾、「教会」に集中します。ここでいう「教会」とは、「イエスは主(神)である」と信仰告白的戦いをしてきた歴史に存在する教会です。改革長老教会協議会は、「ここに教会が存在する」という歴史における神的状況に徹頭徹尾、目を留め、「なぜ教会なのか」という根源的な問いに応えるために、教団の中にあって「戦闘の教会」として存在しているのです。

第九回改革長老教会協議会全国協議会とその課題

 第九回改革長老教会協議会全国協議会が、九月一五日(月)富士見町教会で開催されました。「信仰告白は教会のきずな」という主題の下、藤掛順一牧師の主題講演、そして長老、教職に分かれての分団協議、全体協議での声明文採択が行なわれました。豊かな内容の協議会であったことを感謝しつつ、しかし一つ気になったことがありました。それは出席教会八一、参加人数二九二名という数です。出席教会数、参加人数共、これまでにない少ない数であったということです。特に出席教会数が少なかったことに危機感を覚えます。私たちはその原因を丁寧に分析する必要があるでしょう。翌日、行なわれた第二二回全国牧師会において、その点を指摘する意見がありました。その牧師は、教団が正常化してきたことに原因があるのではないか、と意見を述べていました。

 第一回全国協議会が鎌倉雪ノ下教会で開催されたのは、一九八五年でありました。それ以来、九回の全国協議会が開催され、次回二〇〇五年に開催される全国協議会は第十回目、協議会運動が開始されてから二十年の節目を迎えます。私たちは態勢を整え、祈りつつ第十回全国協議会を迎えたいと願います。この二十年の問、教団の状況も大きく変わりました。教団執行部もいわゆる社会派路線から正常化路線へと人身が一新しました。私たちの教会が懸念していた日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおしに伴う、教団の名称変更、教憲・教規、信仰告白の改悪は回避されました。教団は教団信仰告白に従って教師検定試験を行ない、伝道する教団として再生していくために新たに動きだしています。

 このような教団の中に存在する改革長老教会協議会は、教団がどのような状況にあってもその存在意味は変わらないはずです。協議会運動は教団が悪しき状況の時のみ存在意味があったのではないはずです。むしろ教団が正常化してきている今日、ますます協議会運動は存在意味を増してきていると言っても過言ではありません。なぜならば、私たちの志はただ一つ、この国に「キリストのからだなる教会」を形成することにあるからです。合計九回の全国協議会において一貫して申し合わせてきたことは、「私たちは、使徒信条、ニカイア信条などの基本信条、宗教改革、特に改革教会の諸信条、一八九〇年日本基督教会信仰の告白、一九五四年日本基督教団信仰告白へと引き継がれている連続した告白の歴史的流れを尊重し、信仰告白を規範とした公同教会の形成に努める」ことにあります。

信仰告白の歴史的重層性の上に立つ教会

 しかし上記のような声明文を掲げる私たちの教会に対して、東京神学大学主催の日本伝道協議会の席で、しばしば批判がなされるのです。それは、一八九〇年日本基督教会信仰の告白を掲げていることが、教団の中にあって分派主義、偏狭な教派主義を押し進めていると受け止められているからです。

 およそ教会は、「イエスは主(神)である」という信仰告白的戦いにおいて、代々の教会が信仰を告白してきた歴史の積み重ねという伝統の上に存在するのです。信仰告白の歴史的重層性の上に教会は立つのです。一八九〇年日本基督教会信仰の告白は、わが国において、わが国の言葉で初めて告白された信仰告白です。基本信条、宗教改革の福音的諸信条といった歴史的信仰告白と連なる信仰告白であり、さらにこの一八九〇年日本基督教会信仰の告白を基にして、一九五四年日本基督教団信仰告白が生まれたのです。一八九〇年信仰の告白は、日本基督教会の信仰告白でありましたが、決して教派主義的な信仰告白ではなく、「我らが神と崇むる主イエス・キリスト」という「御子の神性」、「また父と子と共に崇められ、礼拝せらるる聖霊」という「聖霊の神性」という告白文において、基本信条であるニカイア信条の信仰を受け継ぎ、使徒信条を公同の信仰として告白する簡易信条です。日本基督教会は偏狭な教派主義であったのではなく、公同の信仰をわが国に形成しようとする公同的な長老制度を整えた公同の教会であったのです。その意味で、一八九〇年日本基督教会信仰の告白は、基本信条、宗教改革の福音的諸信条と、一九五四年日本基督教団信仰告白とを結び付ける歴史的に重要な公同の信仰告白なのです。

日本基督教団教憲第二条に基づいて

 第九回改革長老教会協議会全国協議会において採択された声明文の第一項は次の通りです。

「わたしたちは、信仰告白が教会を結ぶきずなであることを確認し、日本基督教団教憲第二条に基づいて以下の信仰告白を継承し、告白します。(こ使徒信条、ニカイア信条などの基本信条、(二)宗教改革、特に改革教会の諸信仰告白、一八九〇年旧日本基督教会信仰の告白、(三)一九五四年日本基督教団信仰告白」。

 今回初めて、「日本基督教団教憲第二条に基づいて」という文言が加わりました。日本基督教団教憲第一条と第二条は次の通りです。

第一条「本教団はイエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるととろにしたがって、主の体たる公同教会の権能を行使し、その存立の使命を達成することをもって本旨とする」。
第二条「本教団の信仰告白は、旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して、一九五四年(昭和二九年)十月二六日第八回教団総会において制定されたものである」。

 教憲第二条が規定している通り、教団信仰告白は、旧新約聖書に基づき、代々の教会が信仰を告白してきた歴史の積み重ねの上に制定されたものです。ある日突然、天から降って来たものではなく、代々の教会が信仰を告白してきた歴史の積み重ねの上に成り立っているものなのです。そのことを認めているのが教憲第二条なのです。そして改革長老教会協議会は、この教憲第二条に基づいて、使徒信条、ニカイア信条などの基本信条、宗教改革、特に改革教会の諸信仰告白、一八九〇年旧日本基督教会信仰の告白、一九五四年日本基督教団信仰告白を継承、告白しているのです。

真理の言葉を正しく伝えよう

 改革長老教会協議会のこのような声明文に対して、教団における分派主義、偏狭な教派主義という批判があることは、勿論、受け止める側の誤解もありますが、語る私たちの側にも間題があるのではないでしょうか。テモテヘの手紙二第二章15節〜16節に、このような御言葉があります。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい」。ここに「真理の言葉」と対比して語られています「俗悪な無駄話」とは、「身内だけに通じる新奇な言葉」という意味です。もしかしたら知らず知らずの内に、私たちも身内だけに通じる新奇な言葉を語っているのではないでしょうか。もしそうであるならば、通じる言葉に言い換える必要があります。茎言を変えていくしなやかさと勇気と努力が必要です。

 私たちが語るべさ言葉とは、身内だけに通じる新奇な言葉ではなく、真理の言葉を正しく伝えなさいと勧められています。この「正しく伝える」という言葉は、ギリシャ語で「オーソトメオー」という言葉で、「オーソドクシー」、すなわち「正統的な信仰」という言葉の基になった言葉です。この言葉は新約聖書ではこの箇所しか用いられていません。七十人訳ギリシャ語旧約聖書では、箴言三章6節、二章5節の二箇所のみです。いずれも「道をまっすぐにする」という意味で用いられています。真理を正しく伝える。それは真理をまっすぐに伝えることです。私たちの人問的な思いを差し挟む余地が全くない程に、真理をまっすぐに伝えるのです。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、」と言って、受け継がれて来た信仰をまっすぐに伝えました。そしてパウロは、歴史において受け継がれ伝えられた「健全な教え」、すなわち信仰告白の上に「健康な教会」は形成されるのだと語りました。

 熊野義孝先生は『伝統』という論文の中で、このように述べています。

「この事実を神学的にいえば、正統教理(ドクトリナ・オルトドクサ)が公同教会の基礎を形造るということである。伝統は正統教理を継承するところにのみ形成される。そして正統教理は伝統形成的である。さらにこの事実を教会史的にいえば、ニカイア・カルケドンの線に沿うところの教理的信仰が公同教会の伝統であり、あるいは伝統的歴史的教会の基礎である。改革者たちもみずから彼らが清純な意味において正統主義者公同主義者(ホモ・カトリクス)であることを弁明し努力した。伝統教会であることを恥とはしなかったのである」。
「歴史的教会の生命が活発な生長発展を成すためには、根本的伝統すなわち公同の信仰(フィデス・カトリカ)が絶対不可欠の要件であって、この土台を暖味にする時は決して教会成立の基盤たり得ない」。

改革長老教会協議会が教団に存在する意味

 教団の教憲の前文で、こう語られています。

「わが国における三十余派の福音主義教会およびその他の伝統をもつ教会は、それぞれ分立して存在していたが、一九四一年(昭和一六年)六月二四日くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った。かくして成立したのが日本基督教団である」

。公同の信仰に立つ教会は、それぞれの教会が受け継いで来た教派的な伝統を廃棄し、無教派になることではありません。またその逆に、独善的な教派主義になることでもありません。それぞれの教会が受け継いで来た教派的な伝統を認め合いながら、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会の形成のために仕えていくのです。それが合同教会である教団を豊かな公同教会にすると確信します。教団は教憲・教規、信仰職制など様々な点で未定型な教会です。その意味で合同が完成した教会ではなく、合同しつつある教会です。教憲・教規・信仰職制など様々な点で未定型な教団にあって、改革長老教会の伝統を受け継ぐ協議会の教会が、その分野で果たしていく役割は大きいのではないかと考えています。

教会を支えられるのは

 英国の聖公会の牧師であり、オックスフォード大学の神学部歴史神学教授であるA・E・マクグラス『十字架の謎』の最後の章一十字架を背負って生きるS教会のあり方∫」で、ルターの言葉を引用して本論を締め括っています。そのルターの言葉をここでも引用して、締め括ります。

 「教会を支えられるのは私たちではなく、私たちの先に来た者でもなく、私たちの後に来る者でもない。それは、過去も今も将来も、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』と言ったあの方なのです。それは、イエス・キリスト、つまり、ヘブライ人への手紙二二章にある、『きのうも今日も、また永遠に変わることのない方』であり、また、ヨハネの黙示録;早の、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。まことに、それは、あの方だけであり、ほかの誰でもなく、誰でもありません。なぜならば、あなたや私は、千年前には生きていませんでしたが、教会は、私たちがいなくても支えられており、支えていたのは、『かつて』『きのうも』おられた方なのです。・・もし、教会や私たちを支えているあの方がいなければ、教会は、私たちの見ているまさに目の前で消え去るでしょう。そして、私たちも、それといっしょに、消え去るでしょう。このことを、私たちは、たとえ、信じたくはなくとも、それでも理解はでき、感じることが出来るでしょう。私たちは、『今』『今日も』おられる、と言われている方に、自分自身をゆだねなければなりません。さらに、私たちは、自分が死んでしまえば、教会を支えるために何も出来はしません。けれども、『やがて来られ』『永遠に』おられる方が、支えるでしよう」。

(山田教会牧師)


Homeに戻る