地方小都市教会の伝道をどうするか ―代務者の経験から―

山ノ下 恭二

 一九八五年四月二九日、鎌倉雪ノ下教会で日木基督教団改革長老教会協議会第一回全国協議会が開催されて、二〇〇五年で二十年目を迎えます。この二十年の歩みをどのように総括するのかを私たちは問われています。

 本誌の巻頭論壇は協議会運動を推進するために必要な方向性を明確に論じるところですが、地方小都市教会の代務者を経験し、地方小都市教会の伝道について考えていることを述べたいと思います。この協議会に参加している三つの教会が相次いで無牧となり、私は代務者を引き受けました。その経験から改めて様々な問題を抱えて長老・教会会員が懸命に教会を支えていることを改めて知らされました。代務者を引き受けた教会はいずれも旧日本基督教会の伝統を持った地方小都市の教会です。

牧師自身の問題

 代務者としてまずしなければならないことは牧師招聘です。改革長老教会の伝統にふさわしい牧師を招聘することが求められます。自薦、他薦と連絡が入りますが、みことばに忠実な説教と堅実な牧会に奉仕する牧師が与えられるように祈りつつ招聘を進めました。東海連合長老会の「牧師招聘の手引き」をテキストに長老会で研修し、個人的な関わりで招聘することなく、牧師のファンを作るような自らの体質を反省することが出来ました。このような時に、どのような教会なのか確認することができたことも感謝でした。招聘を審議する長老会で、招聘する牧師の年齢や家族などが話題になりましたけれどもこのこと以上に話題になったことは、牧師の人柄や生き方についてです。説教で語っている内容と日常的な言動とのつながりを教会会員は見ています。説教の言葉と日常の言葉が乖離していると考えているのです。

 私自身の経験では聖書を読み、祈る生活を疎かにしていると説教も日常生活も福音から離れたものになりやすいことは確かです。牧師として生きる以上に、キリスト者として徹底する事が求められているのです。牧師として生きるというよりも、キリスト者として生きているかということです。聖学院大学キリスト教講演会で、資生堂社長・池田守男氏が「サーバント・リーダーシップ」という言葉を用いて、指導者のあり方を説明していました。この言葉は牧師のあり方をよく表していると思います。神学的知識を披露したり、自分の意見を押し通すのではなく、信徒の苦しみに同情しつつ、愚直に仕えることが必要です。

 牧師招聘に関わって痛感したことは、教会の問題は、結局、牧師自身の問題に帰するということです。牧師の個性や賜物はそれぞれ違いますが、キリストに仕えるということを徹底することが求められます。

牧師を育てる教会

 日本の教会は、牧師を育てるという意識が低いと思います。私の経験から教会が牧師を育てるという自覚が乏しいということを肌で感じました。長く教会に仕えた牧師が隠退して、新しい牧師を迎える教会もこれから増えると思います。二十歳後半の若い教職を迎えることもあります。教会会員は高齢化が進んでいますから、六十歳以上の人が多く、そこには世代差があり、ものの考え方や感じ方がかなり違います。五歳違ってもかなり違うのですから、自分の子ども・孫のような若い牧師とは当然違います。前任の牧師のようにしてほしいと願ったり、前任者と比較することなく、新しく迎えた牧師の存在そのものを受け入れていただきたいと思います。神学校卒業の時から、ベテランの牧師のようにできません。葬儀の仕方も経験ある牧師に聞いて、やっとできるのです。失敗を重ね経験を積んでいくことで、やっと説教ができ、牧会が少しできるようになるのです。

 日本の社会の反映で、日木の教会は牧師に対してプラス評価をほとんどしないと思います。「よくやっている」、「今日の説教で励まされました」。このような言葉があると牧師はがんばれるのです。しかし、マイナス評価の言葉ばかりであるとやる気を矢います。牧師を「つぶす」のではなく「育てる」、そのような教会でありたいといつも思っています。

 招聘に関わって審議していると「おやっ」と思う言葉を聞くことがあります。牧師を「雇う」という言葉です。招聘しているという意識ではなく、教会の従業員のように信徒が牧師を「雇う」という意識です。「任期制」は「雇う」という意識の典型です。牧師は神様から召命を受けて遣わされているのであって、教会会員の満足・評価に左右されません。また、牧師は「プロ」であると言うのもおかしい。お金を貰って教会の仕事をしているということで、「プロ」という言葉が出るのです。牧師の働きはただ働けば良いのであって、謝礼は二の次です。謝礼がなくてもそれはそれで良いのです。謝礼は感謝として受け取るだけです。牧師はお金を貰って教会の仕事をしている「プロ」ではありません。謝儀は教会からの「感謝」です。

地方小都市教会の伝道

 地方小都市の教会が抱える問題の一つに少子高齢化があります。現実はもっと厳しく、教会の「秘密結社化」である、という指摘があります。

 最近、ある牧師が教会を辞任するに際して、教会報で次のこと を述べています。「二十一世紀に入って、日本のキリスト教会が直面している問題は『少子高齢化』ではなく、日本社会からの遊離、わたしの用語でいえば『秘密結社化』であると考えます。イェス・キリストの福音を伝えるためには出会いがなければなりません。しかし、この国に生活する人々にとって、キリスト教・聖書と出会う機会は激減しました。原因ははっきりしていると思います。キリスト教主義学校の世俗化。教会幼稚園の閉園。教会学校生徒の減少。遠藤周作、三浦綾子など、キリスト者作家の死去に伴う宣伝力の低下。そして更に悪いことに、一連の不幸な事件が布教への社会的恐怖心を増大させました。ある宗教団体が執勘にくり返す訪問伝道の弊害も見逃せません。ボディブローのように効いてきました」。一少子高齢化一どころではなく、一秘密結社化一という状況に日本の教会が置かれているという主張は私たちの現実に対する正確な認識です。地方小都市教会の伝道を共に考え、担っていく、その姿勢が、協議会に求められているのです。信仰告白、礼拝、長老の任務など、協議会では大切な学びを積み重ねてきましたが、教会の伝道をどのようにするのかを共に考えて方策を検討することが必要です。教会の伝道と取り組む中で、現在、私が重要であり、実践していることを述べたいと思います。

説教、そして洗礼前後の教育

 本誌五四号で、加藤常昭教師が「私たちの教会が問われていること一の中で説教塾についての紹介がありました。私は比較的、早い段階でこの学びに参加し、関わってきました。説教塾に対して、参加したことがないことが原因で伝聞による誤解があり、説教の方法だけ学んでいるかのように思っている人も多いのですが、実際は説教の神学的、実践的な学びの会です。毎週説教するのですから、その説教の評価・検討・学習は欠かせません。教会員は、説教者に対してあからさまな批判は正面切ってしないでしょう。何の批判も受けないので、改善することもなくなり、自己満足して、つまらなく退屈で何を言いたいのか分からない説教を続けることになります。自分の説教を批判されることはつらいことですが、自己流で、改善されない説教にならないためにこのような学びは必要です。私自身の説教は力あるものではありません。しかし、常に努力・精進することが必要だと考えています。教団の教職よりも、ホーリネス教団などの教職が伝道の再生のために情熱的に説教に取り組んでいる姿勢に学ぶ必要があります。教会の伝道を考える時に、以前から問題であると思っていたことがあります。それは、洗礼前後の教育の不足です。教会が洗礼を受ける前後に訓練をせずに放任していることです。キリスト者となり、教会会員として生活するには、洗礼を受ける時に白分自身の中で生活を切り替える必要があります。日曜日の礼拝出席を継続し、習慣として身にっけること、献金を捧げること、祈ることなど、洗礼を受ける時に生活を切り替えなければなりません。このような切り替えをしないうちに洗礼を受けると、異教的・世俗的価値観を持った社会に負けてしまいます。洗礼を受けて教会に来なくなるケースの一つに、生活の切り替えをしないで洗礼を受けることが挙げられます。昨年から、私は洗礼前後の学びに力を注ぎ、脱落しないように学びを続けるように取り組んでいます。


 地方小都市の教会は、少子高齢化・秘密結社化、潜在的求道者の激減・教会財政の悪化という難間に苦悩しています。全国協議会が霊的再生を求めながらこの間題に集中し、その苦悩を分かち合い、伝道の再生のために力を注ぐ改革長老教会協議会でありたいと願います。

(東大宮教会牧師)


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