御言葉によって絶えず改革されることを求めて

高多  新

 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙第13章8節)。

伝統的教派教会の存続の危機?

 昨年の夏、近畿の牧師のためのある神学研究会に参加した。そこでわたしは、講師からある所望的なことを聞いたのである。現在、アメリカにおいては、すでに主流派と呼ばれる伝統的な教派教会は衰退の一途をたどり、ペンテコステ派、または福音派の教会――それは概して無教派的傾向を帯びた教会―が一九七O年代から急速に勢いを増してきているというのである、多くの人々の教会を選ぶときの関心は、その教会が改革派か、バブテストか、メソジストか、といったような教派的なものにではなく、どのような礼拝がなされているか、どのような説教が語られているか、それは、自分たちを十分に満足させるものであるか、ということに向けられている。そして、このままでいくと、百年後には伝統的教派教会は、アメリカから姿を消してしようのではないか、とまで、言われているということである。

 実は、以上のことは、すでにA・E・マクグラス著の『キリスト教の将来』(2OO2年、教文館)に詳述され、警鐘が嗚らされているのである。我々は、アメリカにおけるこのような状況を、文字通り対岸の大服をながめるようにぼんやりと見ているわけにはいかないであろう。やがて、同じような状況はこの国にも起こってくるかもしれない。そして、今はっきりと言えることは、我々は改革されなければならない、ということなのである。

我々はどのように改革されるべきか

 さて、そこで改めて問わざるをえないのは、我々はどのように改革されるべきか、ということである。確かに、「超教派」を標榜する教会は、変幻自在に自己を変えてきた。無教派的傾向を帯びた教会は、教派的伝統に縛られることなく、人間の価値観やニーズに合わせて臨機応変に対応してきた結果、いわゆる教勢を伸ばすことに成功してきたと言えるのかもしれない。しかし、我々は人間の好みに合わせて自らを変えるようなことはすべきではない。かりにそのようなことをしたとしても、一時的に教会員や礼拝出席者は増えるであろうが、教会の本質、あるいは生命力を失うことになり、やがては凋落するであろう。大事なことは、単に人数を増やすことではなく、神に喜ばれる教会を形成することなのである。しかし、そうは言っても、人間のニーズ(必要)を全く無視するわけにもいかない。いや、むしろ我々は、人間本来の深奥からの求め、すなわち、「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42・2)という神を慕い求める究極の求めに応えなければならないし、また、応えることのできる、この世の唯一の共同体である。それはまた、主から与えられた教会の使命でもあるはずだ。

 そうだとすると、我々は、人の好みによってではなく、「御言葉によって」神に喜ばれる教会を形成するのであるが、同時に、究極的な意味で、人間の求めに応じることのできる教会として改革されるはずなのである。しかし、それはどのような教会なのだろうか。

キリストが形づくられるまで

 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」(ガラテヤ4・19,20)。

 我々の教会はどのように変わるべきか、ということを考える上で、最も有益だと思われる聖書の言葉の一つは、おそらく、右のガラテヤの信徒への手紙の言葉であろう。パウロの開拓伝道によって建てられたガラテヤの教会は、福音の真理に「反する福音」(1・8、9)によって変質されようとしていた。しかし、パウロは、そのガラテヤの教会を、「福音の真理にのっとって」(2・14)もう一度建て直そうと、ガラテヤの教会へ激烈な言葉で手紙を書き送ったのである。

 ここから、我々がまず聴くべきことは、「キリストが…形づくられるまで」と語られていることである。つまり、我々の教会は、イエス・キリストがくっきりと形づくられるまで、御言葉によって絶えず改革され続ける、ということである。我々が目指すべき教会とは、常にイエス・キリストがはっきりと示されるような教会なのである。そして、まさにそのような仕方で、我々は人間の究極の求めである神との出合いをもたらすことができるようになるのである。アメリカにおいて伝統的な教派教会がその存続の危機を迎えているのは、もしかしたら、自らを変えることを頑なに拒み続けた結果、結局はキリストの形を損ねてしまったからなのかもしれない。

 第二に聴くべきは、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」と語られていることである。つまり、教会形成というのは他人事ではない、ということである。変わるべきは我々自身なのであり、一人ひとりが、自分の内にキリストの形がくっきりと現されるようにと祈り願うのでなければ、御心にかなう教会の形成はおぼつかない、ということなのである。当然それは、牧師、長老に限らず、教会員全員について言えることなのである。

 第三に、「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」という御言葉に耳を傾けよう。つまり、教会が常に新しく生まれ変わるためには、「産みの苦しみ」を必要とする、ということである。苦しみの伴わない教会形成はあり得ない。しかし、カルヴァンが語っているように、「生んだあとに喜びがある」(『新約聖書注解』第10巻105頁)のである。だからこそ、苦しみに耐えることができるのである。我々は、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ1・9)ことをむしろ喜ぼう。

 第四に、「わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」という御言葉が重要である。ガラテヤの教会がキリストの体として新たに形づくられるために、パウロは、まず自分の言葉を変えようと語っているのである。これは、説教者である牧師が特に聴かなければならない御言葉であろう。カルヴァンはここでこう語っている。「この態度は、牧師たちが自分のことに熱中し自分の傾向に溺れてしまうことなく、正当な理由さえあれば、人々の能力に応じて自分を変えるようにするために、心して守らねばならないところである」。カルヴァンでさえ、自分を変えるための心備えをしているのだから、まして我々はなおさらであろう。牧師(またその説教)が変わらなければ、教会も変わらないであろう(牧師の首をすげ替えることを意味しているのではない。念のために)。説教者は自分の語る説教に責任を特たなければならない。そして、常に説教者としての自己訓練に励まねばならないであろう。厳しく自己吟味し、福音が純粋に説教されているかどうか、また、その福音が聴き手に正しく届いているかどうかを常に点検する必要があるのである。これもまた忍耐と苦しみを伴う務めではあるが、光栄に満ちた務めなのである。このことはしかし、牧師だけではなく、長老会全体の任務でもある。

終わりに  改革・長老教会の伝統に生きる意義

 日本基督教団改革長老教会協議会は、「御言葉によって絶えず改革される教会」を標榜して20年の歩みを続けてきた。しかし、それはまた同時に、いつの世においても、永遠に変わることのない真の教会をめざしての歩みでもあったと信じる。なぜなら、教会は、真にキリストの体として形づくられていくならば、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ13・8)教会となるはずだからである。しかし、そのためには、いつの世においても、永遠に変わることのないイエス・キリストを土台として教会が建てられていくのでなければならない(Iコリント3・10〜17参照)。改革長老教会協議会が、この20年間、一貫して「基本信条(殊にニカイア・コンスタンティノポリス信条)が告白している信仰を規範とし、改革長老教会の伝統に立って日本基督教会が一八九〇年に制定した信仰の告白を失うべからざる信仰の遺産として継承し、日本基督教団の信仰告白を承認して教会を形成する」(「基本線」)と言い表してきたのはそのためである。ここに、我々の教会が、改革・長老教会の伝統に生きている大いなる意義があるのである。

 今、われわれが問われていることは、われわれのうちにキリストがさらに鮮やかに形づくられるための新たなる挑戦をすることができるかどうか、ということではないか。倦まず弛まず、「御言葉によって絶えず改革される」ことを祈り求めていきたい。

(南紀の台伝道所牧師)


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