ドン・キホーテをめぐって

増田 志郎

 世界中の人々に聖書の次に読まれているのが小説「ドン・キホーテ」であるという。ドン・キホーテがこの世に現われて今年で四百年になる事から、色々な催しが計画されているという。ところでドン・キホーテは何を語っているのだろうか。それは夢と愛に生きるのが人間だという事である。

 このドン・キホーテの主題をさらに明確化したのが「ラ・マンチャの男」である。私はこの有名なミュージカルを大金一万五千円を払って数年前に帝国劇場へ見に行った。松本幸四郎と娘の松たか子主演で、上演千回目という事がら話題になっていた。なかなか凄い仕掛けがあり、舞台の上から大きな階段が音も無く降りてきたり、幸四郎や松たか子の演技の素晴らしさに魅せられた。

 原作の小説ではキホーテが痩せた馬のロシナンテに乗って、家来のサンチョ・パンサと美しくて高貴なドルシネーア姫を捜す旅である。だが、最後まで憧れの姫に会う事が出来ずに、彼は病気になって死んでしまう悲しい物語である。

 しかしこの話をもとにして、アメリカの脚本家デール・ワッサーマンによって、ラ・マンチャの男という話が四十年ほど前に作られた。この物語では、ドン・キホーテが冒険の旅をして、ようやく憧れのドルシネーア姫に会った所から始まる。だが彼女は、村の汚い宿屋で働き、夜になると体を売る女たった。女の名前はアルドンサという。いつも目は血走っており、胸はほとんどはだけ、客のドン・キホーテに乱暴に酒をつぎ、流し目を送る。だがドン・キホーテは彼女を一目見て、「姫」と呼びだす。「あなたは尊い姫君です」と何回も、心をこめて呼びかける。

 すると女は腹をかかえ笑って言う。「えー、私が姫だって?あたしはアルドンサさ。あたしは汚いドブの中で生まれたんだよ。母は生まれたばかりの私を置き去りにしてさ。あたしは裸で、寒くて、あんまりひもじくて、声も出せなかったそうだよ。母はきっと、あたしが死んでしまえばいいと思っていたのさ」。ドン・キホーテは女をじっと見つめて、こう告げた。「あなたの名前は、アルドンサではありません。それは仮の名前です。わたしが本当の名前を教えてあげましょう。あなたはドルシネーア姫です。あなたこそ姫君の中で、身も心も気高く、美しい姫君です」。

 アルドンサはそれを間いて、「ひょっとすると自分は尊い血筋の人間かも知れない。私だって捨てたものではない」と思う。だがドン・キホーテと別れた直ぐその後で、彼女は何人かの旅の男たちに、服を脱がされ、乱暴をされて、気を失い、狂乱状態になってしまう。しかしそんなアルドンサをドン・キホーテは、優しく扱い、彼女を再びドルシネーア姫と呼び、尊い姫君として仕えようとする。傷つけられ、押しつぶされ、自己嫌悪だらけのアルドンサは、彼に向かって叫んだ。「あたしを、もう姫なんて呼ぶんじゃないよ! あたしはね、ただの下品で汗にまみれた、だらしない女なんだ。男たちが遊んでは忘れてしまう女さ!あたしは汚れた女のアルドンサだ。それ以外の何でもないよ」。彼女が興奮している時にも、彼は「姫よ!」と呼びかける。彼女が腹を立てながら、立ち去っても、その後を追って、暗闇の中で「姫!」と人声で叫び続けている。そして彼は自分で彼女につけた名前で、今度は「ドロシネーア姫……」と呼びかける。だがその声は、空しく暗闇で響くだけであった。

 ドン・キホーテとサンチョ・パンサの一行は、それから長い旅に出た。やがて数年経って、キホーテは病気になって家に帰り、寝たきりの病人になってしまう。病床の彼は、げっそりとやつれ、目はうつろになっていた。医者も「彼の命はもうない。もう最後です」と宣告を下した。キホーテは友人や家族からも見放され、寂しく最後の時を迎えようとしていた。彼はもはや自分が騎士のドン・キホーテとして旅をした事も、色々な冒険をした事も、はかない夢の上うに忘れていた。まわりの者たちも、彼が騎士道に憧れた、ただの狂人でしかないと思っていた。

 その部屋に高貴な姿をした美しい婦人が入って来て、彼のそばに近寄った。彼のベッドの傍らに来て「ドン・キホーテ様」と言った。彼は彼女が分らなかった。「あなたはどなたですか?」と死の間際の、かぼそい声で尋ねた。彼女は彼のそばにじっと脆いて、静かな美しい声で告げた。「私の名前? 私の名前はドルシネーアです」。

 キホーテは半信半疑だった。だが次第に思い出した。目にいっぱい涙をためて「では、あれは夢ではなかったのか」と呟いた。ドルシネーアは「そうです。ドン・キホーテ様、ありがとう。あなたが私を救ってくださいました。私はあの悲惨な生活の中で、本当に高貴な方と出会い、愛を受けて結婚をしました。私はあなたの言う通りの人間になったのです」。

 そしてドルシネーアは、ドン・キホーテのベッドの横で、腰をかがめてその手に口づけをした。「もったいない。姫が私にひざまづいて目づけをされるなど……」。そして彼は家来のサンチョに言った。「今は、病気で寝ている時ではない。こうしてはいられないのだ。さあ、再び旅立ちをしようではないか。行くぞ。サンチョ」。彼はベッドから立ち上がり、旅立ちの姿をした。鎧を着、兜をかぶったが、もはや歩く事が出来なかった。彼のその身なりは、死への旅立ちであった。彼は喜び勇んで、騎士のドン・キホーテとして、人生を終えて行った。

 これが「ラ・マンチャの男」の荒筋である。日本で千回も繰り返され、最高のミュージカルといわれている。それはこの物語が受の素晴らしさを歌っているからである。ドン・キホーテのアルドンサに対する受か、自暴白棄になっていた彼女をやがて変えて、生まれ変わったような女に変えてしまう。全ての人が、愛を求めている。愛が私たちの平凡な生活を生き生きとしたものに変え、希望と喜びの人生を送る事が出来るようにする。お金や物質がどんなにあっても、希望と喜びは手に入らない。それで人々は、愛を求めるのである。

 さて私たちにない真実の愛とは、神の私たちに対する愛である。その愛がイエス・キリストによって私たちに与えられている。実はドン・キホーテの物語も、ラ・マンチャの男にも、その原型とも言うべき人がいるのである。それがイエス・キリストである。キリストは私たちを神の尊い子として愛し抜いて下さった。人から笑われ、軽蔑され、無視されながら、私たちを愛しぬいて、つ いにはご自分の尊い兪を十字架上で捨ててしまわれた。

 ドン・キホーテのアルドンサヘの愛、それはキリストの私たちに対する責実の愛を表している。自分を嫌悪し、自分を責め、他人や社会を睨っていた人が、その愛に触れて、変えられて、美しく、高貴で、優しい人へとなって行くのである。パウロは

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらたたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。……………それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(Iコリント十三・4-8a…13)

と語る。

 ヨハネも

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Iヨハネ四・10)

と言っている。私たちはこの神の愛に強く生かされたいものである。キリストを通して神の愛かすべての人に与えられている事実をもっと人々に伝えなければならない。

 キリストは「あなたたちは神の子である。決して罪と汚れにまみれたままの人間であってはならない。神の御心を行う者として生かされているのだ。あなたたちは良いことを行うために神によって創造された人間である」と語り、愛をもって接して下さる。私たちがキリストの愛をどんなに退けても、キリストはその愛を注ぎ、神の子として扱って下さるのである。

 ドン・キホーテは無償の愛をアルドンサに捧げた。それが彼女を変えた。私たちもキリストの愛を知らされて、新しい人間としての歩みを始めている。信仰者とは、この愛の素晴らしさ、偉大さに目見めた人を言う。もはや罪や欲望に支配されないで、神の子としての喜びに生かされて歩む人である。

 そこには涙があり、感激があり、生き甲斐がある。教会はそのような者たちが集まり、互いの人生を語り合い、励まし合う所である。教会が愛に敏感であり、神の愛を一心に語らないなら、どこで神の愛を見出し得るのか。私たちが神の愛を人々に伝えないなら、罪と汚れから人々は救い出される事は決してないだろう。

 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と言われる意味を、教会でもっと明らかにしようではないか。

(平塚富士見町教会牧師)


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