60号記念特集 <共同体としての教会>

芳賀 力

一 大きな社会の中で

 私たちの生きている時代は、ようやく個であることが大事にされるようになった時代です。個人の基本的大権が尊重され、思想や言論、信教や結社の自由が保証されています。こうした社会のあり方は、人類の歴史が長い問かけて獲得してきた、大ってはならない財産です。これを獲得してきた過程に、聖書の信仰に忠実に生きようとしたプロテスタント諸派の運動が大きな役割を果たしたことが、多くの歴史家によって指摘されています。

 しかし残念なことに、こうした歴史的由来を知らない人々が、生まれながらに自山の享受者となるやいなや、個の自由に大きな変質が見られるようになりました。自由は今や、功利的、享楽的な個人主義の公然たる隠れ蓑になってしまっています。自分の権利だけを主張しノ自分さえよければ後はどうでもよいとする身勝手なミーイズム(私―中心主義)が、ひそかに蔓延しています。しっかりした価値観の共有がないために、個々人は巨大な欲望消費社会のメカニズムの中を、根無し草のように流れに身を任せて漂流しています。ミーイズムは気楽なのですが、成熟した自己が確立していないために、そのつどの単発的な興味や利害関心では意気投合するものの、結局は脈絡のない生き方となり、個人主義のはずがかえって大衆(マス)として操作されやすいという皮肉な結果を生み出してしまいます。何と言ってもこの「大きな社会(a large society)」では、生の規範となるはずの道徳が個々人の好みやフィーリング(感覚)の問題へと解体され、情緒化してしまいます。唯一、一致する規範は、規範などないという規範、つまり美徳なき功利主義です。功利主義にはどうしても他を顧みない非情な面がつきまといますから、この大きな社会の中での激しい競争に敗れた者は、希望を持てずに自死を選ぶか、寄る辺なく病むことへと追いやられます。

二 共同体の再発見

 これはどこかおかしいと、そう思う人々が、自由主義のアメリカで声を上げ始めました。それが共同体論者と呼ばれる人々です。彼らは、個大の功利的な自由だけを追求し、善き生への問いをなおざりにするような政治や経済のあり方に異論を唱えました。善き生への問いを不問にしたままでは、しっかりした個の確立はままなりません。そしてしっかりした個が確立されずに出来上がった功利的社会では、いかに老練な利害調整が行われようとも未熟なのです。

 では、いったいどこで善き生への問いは担われるのでしよう。そこで改めて光を当てられたものが、大きな社会と個人の中間に位置する「共同体」という存在です。個々人は自分一人で人生の知恵や価値観を身につけ、自分の生き方を選び取ってきたわけではなく、共同体の中で育まれ、(時にはそれに反発し対決することもあるでしょうが、しかしいずれにしても)共同体の提示する生の形と対話することの中で、善き生の構想を学び取ってきたのです。ところが、現代社会の一つの特徴は、こうした善き生の構想を担う共同体が消失しているということです。

 いや、そんなことはない。血縁的、地縁的なつながりを基盤とした自然的な共同体がまだ存在するではないかと反論されるかもしれません。個人主義というのは都市的現象で、地方ではまだまださまざまな地域共同体が根強く残っているということも事実でしょう。こうしたイエ―ムラ―クニという自然的紐帯は、よそ者を排除し、同胞のみの利害を優先させる集団的エゴイズムにすぎないものですが、そうしたものもまた巧みに「善き生の構想」を口にする場合があります。戦前の国家主義や狭いナショナリズム、民族主義などがその例です。最近の歴史教科書問題や教育基本法の見直し、自国中心の排他的愛国心教育の復興などの勤きにも、そのような面がうかがえるでしょう。しかし、まさにそこでこそ、本当にそれは善き生をもたらすものなのかどうか、その「善き生の構想」の質を問いただすことが求められるのです。

 「大きな社会には美徳のない誤りがあり、古い共同体主義には誤った美徳がある」(拙著『使徒的共同体』教文館、二〇〇四年、一五頁)。どちらも本当の意味で善き生を実現するものではありません。問題は、この大きな社会の中で、どのようにして功利的個人主義を上回る善き生の構想を示しうるのか、しかもそれを、古い共同体主義のような集団的功利主義としてではなく、普遍へと聞かれた善き生の共同体として構築しうるかということに懸かってきます。美徳なき大きな社会に対しては、いかにして新しい美徳(生の美質)を創出することができるか、誤った美徳に酔う独善的な共同体主義に対しては、もう一度冷静にその美徳の質を問うことが課題となります。

三 聖書の民

 こうした問題に直面している現代の私たちにとって、聖書の語る事柄がどれほど大きな指針になっているかに、改めて気づかされます。まさに聖書こそ、共同体を形成することを私たちに呼びかけている書物だからです。

 聖書は、創造から終末へと向かって大きな弧の張られた神の歴史について物語っていますが、そこには、この歴史を担うものとしてイスラエルと教会という神の民が登場します。このイスラエルと教会を結ぶ頂点に主イエス・キリストがおられます。キリストがおられなければ、両者はばらばらになります。また今日のラディカルな聖書学者の中には、イエスと後の教会とは別のものではないかなどと極端な結論を下す人もいますが、それはあまりにも皮相的な見方です(詳しくは本誌59号の拙論「神の民の神学―イエスと教会」をお読みください)。この神の民は、善き生の構想を明確に物語る、普遍へと聞かれた共同体です。イスラエルはもろもろの民を祝福するためにこそ選ばれ、神の民として訓練されたのであり、そのようなものとして新約の民を準備しました。そしてまさにこのもろもろの民を包括するものとして、新しいイスラエルとしての教会が建設されるに至ったのです。つまり教会は、すべての者を救うために到来された神の歴史を証しし物語るために、もろもろの民のただ中に建てられた共同体です。それはもろもろの民に、創造者なる神の御心にかなった善き生の構想を語り告げます。しかも、この善き生の実現を阻む人間の邪悪さを見据えつつ、にもかかわらずその悲惨さから人間を贖い出す神の救済の出来事を語り告げます。そして、まさにその神の救済の歴史の担い手として、多くの者を洗礼へと招く教会が神の共同体として建てられ続けているのです。

四 御国の美徳に生きる民

 聖書の民は聖書によって生きます。聖書の民が聖書によって生きる時、そこには独特の個性が生じます。それは、もろもろの民にはなかった、贖われた民としての個性です。キリスト者は、贖われた人間として、信仰・希望・愛を土台とした御国の美徳に生きる民になります。個人的なキリスト者は存在しません。キリストと交わりを持つ限り、そのキリストが交わりを持つ者たちとの交わりの中に置かれ、公開の信仰に生き、公団の(普遍的な)教会に連なる具体的な教会の一枝として、祈りかつ働いているのです。しかもこの共同体の中で、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録五・29)と告白できる、我ここに立つ信仰の主体性が涵養されてゆくのです。「我信ず」と告白できる信仰を養い育てる「我らは信ず」という群れがここにあるのです。そしてこれらすべては、聖霊の働かれるまことの礼拝の経験を通して、出来事として私たちの身に及ぶものとなります。現代社会の多元的な価値観の氾濫する中、礼拝における御言葉を通して、功利主義を上回る善き生の構想が示され続け、功績主義、競争主義に傷つき、疲れ果てた魂にいやしがもたらされ、人間にとって全世界を手に入れるよりも大切なもの、すなわち「自分の命を救う」(マルコ八・35)救済がもたらされるのです。

五 本号の特集について

 本号は「共同体としての教会」と題して特集を組みました。私たちに教会という共同体が与えられていることの恵みを改めて味わい直すことができればと願っています。あわせて、私たちの信仰のあり方をもう一度見つめ直す機会になれればと思います。

 何もないところからは始められませんので、問題意識を共有していただくために、議論の共通の土台として、『使徒的共同体―美徳なき時代に』(教文館、2004年)を手がかりに、まず編集委員が六つの視点から「小さな問いかけ」を提示してみました。これに対して、やはり前掲書を一応共通の土台として、各執筆者の方々に「一つの答えとして」を執筆していただきました。とはいえ、全員顔を合わせ、この主題に集中して意見交換をしたわけではありませんので、趣旨だけ念頭において、後はそれぞれ自由にお書きいただきました。

 共同体としての教会をめぐる六つの視点の関連は、以下のようなものです。A 御言葉に立つ教会 今日聖書を読む読み方が崩れかけています。当時の世界観や特定の信仰によって脚色された歴史的な記録文書のようにしか見られず、信仰と生活の誤りなき規範とは受け取られません。聖書を生ける神の言葉としての正典として読むにはどうしたらよいのでしょう。そこには共同体の中で読むということに大きな意味があります。そのことと説教とはどのように関わるのでしょうか。B 公同の信仰 そこで問われてくるのが公同の信仰としての教会の信条です。ひとりよがりの信仰のあり方から脱却する上で、共同体としての教会はどのような働きをするのでしょう。C 霊的な礼拝 この共同体を世の共同体から区別するものは礼拝です。礼拝を通して私たちはキリストの民としての性格を身につけていきます。私たちの礼拝はそのような性格形成へと至るほどのものになっているでしょうか。D 慰めの共同体 私たちは孤独な信仰者ではなく、御言葉によって養われる神の民の一員です。そこに大きな慰めと励ましの源があります。それをどう分かち合えているでしょうか。御言葉に基づく慰めと励ましとはどのようなものなのでしょう。E 共同体のかたち 神のお立てになった共同体には、霊的な秩序と制度が伴います。これは牧いといやしをもたらす制度です。長老制度もそのことに仕えるためにこそあるものです。この観点から私たちの制度のあり方を見直す必要はないでしょうか。F 教会の証し 最後に、教会は異教社会の中に置かれている共同体です。その中でキリストの民はどのように聖書の民としての性格を発揮し、普遍的価値を誇らかに伝達できるのでしょうか。ここに示したものは主題をめぐるその一端にすぎません。問いも答えも自由になされています。問題意識は続きます。実際の教会形成と福音伝道の現場で、さらなる問いと答えが積み重ねられていくことを期待したいと思います。

(日本基督教団東村山教会牧師・東京神学大学教授)


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