教師制度と教会論

藤掛 順一

 筆者は現在、教団の「教憲9条検討作業委員会」の一員である。この委員会は、教団において既に数十年議論されてきた、いわゆる「二種教職制(正教師、補教師)」の問題の解決に向けて、常議員会の議論に資する準備作業をするために設置されたものである。二種教職制の根本的問題は、教会の教師として立てられているにもかかわらず聖礼典を執行できない者がいる、ということにある。先頃この委員会で、問題点を整理した文章を常議員会に提出したので、その一部をここに紹介したい。教師を立てるということ(制度)は教会論の確立と不可分の関係にあること、日本基督教団においてはそれが未確立であることがここにはっきりと語られている。常議員会出席者以外の目にはなかなか触れないものだが、常議員会の資料として公にされているものであるから、読者諸賢にもお読みいただくことに意昧があると思う。

教憲9条検討作業委員会報告(二〇〇五年七月十一〜十二日、第二回常議員会に提出)

 この問題は、教憲・教規の法的整備ということでは済まない、教団の教会論、教師論をどう確立するかという根本的な問題と関わっている。このことを通して、日本基督教団の教会論、教師論における一致を確立していくことを願う。今後検討し、一致を得ていくべき事柄には以下のことがある。

1 基本的な問題

     @教会の教師とは何か

 プロテスタント教会において、教師は「聖職者」ではなく、信徒の一人であり、教会において説教と聖礼典の執行を託された者である。いわゆる万人祭司(より正確には信徒の普遍的職務論)の原理に立つ中で、教師と一般信徒の相違、また教師に託されている職務とその意味をはっきりとわきまえる必要がある。そのことは教会における職務論を確立することであり、伝統的に「長老」「執事」と呼ばれてきた職務との関連で考えられなければならない。「牧師、長老、執事」の三職、あるいは「牧師、(神学)教師、長老、執事」の四職を基本とする職務論の確立が求められる。現在の教憲・教規にはそれが明確にされていない。(一部省略)

     A何故教師が必要か

 教師は、教会が使徒的、公同的信仰を受け継ぎ、まことの教会として歩むために立てられてきた。まことの教会の印としては、宗教改革以来、み言葉の説教と聖礼典の正しい執行が挙げられており、それに戒規(訓練)が付加されている伝統もある。これらを担う者として教師が立てられている。教会がキリストの教会として正しく歩むために教師が必要なのである。教師論、教師制度の確立のためにはこのことがはっきりと認識されていなければならない。(一部省略)

     B教師は誰が立てるのか

 教師制度の確立とは、教師をどのように立てるかという制度の確立てある。教師は、教会が、公どうの信仰に基づいて立てるものである。「公同の信仰に基づいて」ということが非常に重要である。このことがなければ、他の教会との宣教協力、双方の教師を迎え合う交わりが不可能となる。日本基督教団はいくつかの教会と宣教協約を結んでいる。このことは、双方が「公同の信仰」に立っていることを前提としているのである。「教団」でしか通用しないような教師を立てるようなことがあってはならない。

 また、教師は個人的資格ではなく、教会の職務へと教会が立てるものである。教師を立てる主体は教会(全体教会)である。教師としての「資格」は個人的な資格や権利ではなく、教会の主から与えられた任務であり、奉仕職である。

     C教団の教会論、教師論の確立の必要性

 二種教職制をどうするかという教師制度の問題は、教会論・教師論の確立なしにはあり得ない。そもそも二種教職制は、様々な教派の教師理解の折衷によって生じた制度である。教団の教会論が折衷的であることと、教師論が折衷的(二種教職制)であることは表裏一体の関係にある。

 教団は現在、教師を立てる主体を各個教会にではなく全体教会としての教団に置いている。そのことの現れとして、教団の常設委員会である教師検定委員会が教師試験を行い、合否を認定している。しかし教団はその教務を教区に託しており、教会の「地域的共同体」である教区が、実際には教師の按手、准允、就任を司っている。そこに、教区が教会であるかのような誤解が生まれ、教区によっては、教区の教師を立てるのか、教団の教師を立てるのかがわからなくなっていることが見受けられる。このような曖昧なあり方を脱して、教団としての、教師を立てる筋道における一致を確立しなければならない。そのためには様々な教派的伝統との対話が必要となる。

2 具体的な問題

     @教師養成・検定における問題

 教師養成は本来、1.のことがはっきりしていなければできないはずである。(一部省略)

○教師論が確定しておらず、教師養成にばらつきかおり、試験の規準が明確になっていないという現状の中で、試験を一回のみにすることは、教師の質の低下に拍車をかけることにならないかと危惧される。

     A「教師補」を設ける場合の具体的問題点

 一種教職制においては、教師となるための備えをしている者を「教師補」(信徒)として位置づけることが一般的である。そのようにすることについて、以下のことを考える必要がある。

 (以下に(1)〜(2)までの問題点が掲げられているがそれは省略)

○教師補という考え方は、献身者を全体教会として育て、教師として立てていく、ということを前提としている。教師補を設けるなら、教団がその指導を教会に依託するという体制が必要であり、そのためには教団がその人事を扱うことが求められる。しかし現在の教団では、全体教会として献身者を指導し、育てる体制ができていない。このような現状を打解することなしに二種教職制を廃止することは、現在二度受ける必要がある教師試験を一度に減らす、というだけのことにしかならないのではないか。

 (以下、3 今後に向けて、は省略)

 この「報告」が述べていることのポイントは、「二種教職制」を解消して一種にすることは、教会の教師とは何か、教会が教師を立てるとはどのようなことか、について、教団としての一致した理解がなければ不可能だ、ということである。そういう意味で、二種を一種にすることは現状においては困難であると言わざるを得ないというのが、ここから導き出される結論である。しかしこの「報告」の持つ意味はそのことに止まらない。ここには、教会の教師という職務は、個人が資格を取得することによって成り立つものではなく、教会(全体教会)が、その権能によって立て、任命するものであることが明確にされており、それゆえに任命に至るまでの養成においてもそれに見合った教育がなされなければならないし、また全体教会と各個教会の信仰告白における一致が前提として必要であることが明確に語られている。そして日本基督教団においてはこれらのことがどれも未確立であることが指摘されているのである。教団は自らの教会論を確立できていないし、それゆえに教団の教師とはどのような者であるかを明確にすることもできていない。結果として、各個教会とそれぞれの教師がそれぞれ自分の思うところに従って勝手な歩みをしているのが現状である。この「報告」はそのことを明らかにしているのである。

 即ち、自らを「公同教会」と謳うだけでは、具体的な教会形成にはならないのである。教会形成とは、教会論、教師論を明確にすることである。そのためには、教派的伝統が不可欠である。様々な伝統を折衷しただけでは、結局不明確なものにしかならない。それが「未確立」ということである。教団は「日本基督教団」という一つの教派形成をしっかりとしない限り、教会論、教師論を確立することはできないだろう。

 私たち改革長老教会協議会は、日本基督教団内にあって、改革長老教会の教派的伝統という一つの明確な形に立つ教会形成を目指している。そのことは私たちが真実な教会を形成していくために不可欠であると同時に、教団がその教会論、教師論を形成し、真実に教会となっていくためにも大きな意味を持つのである。

横浜指路教会牧師)


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